世界中どこでも、いつでもラジオ関西「聖書と福音」の聖書メッセージが聴ける(Web Radio) ウェビオ

Bible & Gospel

No.557 2010年11月28日 「仕えて下さる主」

おはようございます。尼川匡志です!

 イギリスの東部、サッフォーク州のヘイブヒルに住んでいるジョン・アイビスさん78歳は先月の10月1日の夜、自宅で妻のジューンさんと一緒にテレビを見ていたそうです。すると突然覆面をした二人組の男がドアをこじ開け、侵入してきました。手には刃渡り20センチのナイフが握られていたんです。妻のジューンさんは思わず悲鳴を上げました。強盗は彼女にナイフを突きつけ「静かにしろ」と命じたそうです。これを見た夫のジョンさんは勇敢にも強盗に飛び掛ったんですね。しかし、力の差は歴然で、床に投げ飛ばされてしまいました。でも、その隙にジューンさんが強盗の手から逃げ出すことが出来たんです。これはチャンスとばかり、ジョンさんはなんと18Kgもあるダイニングのいすを持ち上げ、強盗めがけ何度も何度も振り回したんですね。これにはさすがの強盗も驚き、すごすごと退散したというのです。良かったですね。
 さて78歳のジョンさんがなぜ18kgもある椅子を持ち上げ、振り回すことが出来たのでしょうか。それは皆さんも良くご存知の「火事場の馬鹿力」というものなんです。
 人間の筋肉は筋繊維というものから出来上がっています。そして脳からの指令が運動神経を通して筋肉に伝達され、この筋繊維が収縮や弛緩を行って力を出すのです。人間は普通、大体この筋繊維の50〜60%しか使っていないそうなんです。それは力が出過ぎることで、体にダメージを受けることが無いよう制御するシステムが働くからだそうです。この制御システムが緊急時に何かの拍子で外れ、それで100%の力が出るそうなんです。これを火事場の馬鹿力と呼ぶんだそうです。ある研究者によると、成人男子なら両腕の筋力をフルに使うと、なんと500kgのものが持てるというんです。これはあの横綱白鳳関3人分です。そんな凄い力が、私たちの体の中には眠っているというんですね。

私たちを素晴らしいものとして造られた神

 聖書によればこの宇宙も、この地球も、そして私たち人間も全ては創造主によって造られたとあります。この創造主のことを聖書は神と呼んでいます。そして、この神が人間を造られたとき、この人間を見て「非常に良かったと言われた。」と記されているんですね。確かに私たちの体はとても素晴らしいものとして出来上がっています。筋力ひとつをとっても今も言いましたように、その潜在能力は計り知れないものがあるんです。これは何もアスリートたちのものだけでなく、誰もが持っている力なんです。私たちの体の素晴らしさには本当に驚かされます。心臓は毎日毎日8トンもの血液を全身に送り出しているんです。肺は寝ているときもいつも瞬時に酸素と二酸化炭素のガス交換を行い、肝臓は一切産業廃棄物を出すことなく膨大な化学処理をする工場として働き続けています。脾臓や膵臓にいたっては、私たちがどんな働きをしているかも知らないのに見事に働きをし、この体を維持しています。骨も筋肉も皮膚も爪もそれぞれの働きは実に素晴らしく、人間が走っても飛んでも跳ねても泳いでも大丈夫なように作られているんですね。本当に素晴らしい出来栄えです。神さまが「それを見て、非常に良かった。」と言われたのも納得できます。そして私たちはこの体をただで神様から貰ったんですね。

世界の乱れの元となった人間の罪

 さて、このように私たち人間は良いものとして造られました。ではなぜこの素晴らしいはずの人間が住んでいるこの世界が、これほど乱れ、混乱し、悲しみと怒りで満ちているのでしょうか。その原因についても聖書ははっきりと記しています。その原因、それは私たち人間の内にある罪の性質なんです。
 私たちは素晴らしい肉体と能力を持っています、しかし罪のゆえにそれらを正しく使いきれていないんです。それはちょうど最高級の自動車のドライバーが、お酒を飲んで酔っ払っているようなものです。クルマとしては最高のボディと性能を備えていても、それを運転しているドライバーが正常な判断が出来ず、ルールが守れず、めちゃくちゃな運転を平気で行うなら、そしてそんなクルマばかり走っているなら、その世界が混乱するのは当然のことです。相手を傷つけることもあるでしょう。自分が傷つくこともあるでしょう。ボディがボロボロになることもあるのです。皆さん、ご自分のまわりに今起こっている様々な問題の原因は、もしかしたらこの人生という道を進むときの、「自分の運転が間違っていたからだ」と考えることは出来ないでしょうか。
 では、私たちはどうすれば良いのでしょうか。もし酔っ払っているなら、運転手を正常な判断の出来る運転手に代わってもらえば良いんですね。つまり代行運転をしてもらえば良いのです。

 聖書の中にこのような言葉が記されてあります。
「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

仕えるために人となられたイエス・キリスト

 二つのことを考えます。一つ目です。「イエスという方は神であられる方なのに、その神のあり方を捨てて人となられ、そして人間に仕えるものとしてこの世界に来て下さったんだ。」と言っているんですね。酔っ払いが運転している車を、いくら外から誘導し、指導しても限界があります。ではどうすれば良いのでしょうか。その人に代わって、クルマに乗り込み運転する以外に方法はないんです。クルマの外にいてはダメです、そのクルマの中に乗り込む必要が有るんですね。このことを現実に行うために、イエスは人となり、私たちのもとに来て下さったというのです。

罪の刑罰を受けられた救い主

 二つ目です。私たちはルール無用の運転を今までしてきました。当然いろんなところで違反をしてきました。罰金を支払う必要があります。もしかしたら罰金だけではなく、交通刑務所に入るようなことをしでかしたかも知れません。私たちは正しい審判者の前で、罰を受けなければならない者なのです。でもその私たちが、「人生の最終目的地まで行き着くために、本来私が受けなければならない罰を、私に代わって受けてくださった方がいるんだ。」と聖書は言うんです。これがイエスです。先ほど「十字架の死にまで従い」と言いましたがこの十字架の死こそが私たちが犯してきた、そしてこれからも犯すであろう全ての罪の罰を身代わりに受けてくださった場所なのです。イエスは十字架上で父なる神にこのように祈られたのです。
「父よ彼らを許してください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」
 彼らとは誰でしょうか、私であり、そしてあなたなのです。この罪というものによって正常に判断できなくなった私に代わって、私が受けなければならない罰を身代わりに受け、人生の最終目的地である神の元に無事到着することができるように来て下さった方、それがイエスキリストなのです。
 この方にご自分の人生の運転を、今日、任せてみてはいかがでしょうか。そのことをお勧めしたいと思います。


国分友里恵:主は私の羊飼い
新約聖書 ピリピ人への手紙2:6-8
 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。