No.556 2010年11月21日 「赦しのある場所」
おはようございます。高原 剛一郎です!
先日、私はある集会にお招きを受けました。四年ぶりの訪問だったんです。久しぶりに再会する友らと、旧交を暖めあったのですが、しかし何となくぎこちないんですね。理由は分かっていました。彼らは昨年亡くなった私の妻のことを、どのように慰めてよいのか分からなかったのです。その話題に触れて良いのか、触れずにそっとしておくのが良いのか、いや全く触れないでいるのはかえって失礼ではないかと思案されて、そしてそれがぎこちない態度となって現れていたのです。
妻のことはとうとう触れられないまま、二日たったときのことです。「集会所の隣にある庭を、散歩してみてはいかがですか。」と勧められました。私は何の気なしに庭に出てみて、心が慰めでいっぱいになりました。そこにはコスモス畑が広がっていたからです。コスモスは、妻が一番愛した花だったのです。それを知っている私の友らは、言葉によってではなくコスモスの花によって私を慰めてくれたんです。愛は言葉によっても伝えられます。しかし行動によって、あるいは身をもって示す態度によっても伝えることが出来るんですね。神様の愛もそれと同じです。神様は「愛してるよ」という言葉だけではなく、キリストをもってご自身の心を現してくださった方なのです。今日、キリストにおいて現された神の愛についてお伝えいたしましょう。
私達に対する神の愛
聖書にこう書いてあります。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにも死ぬ人はほとんど有りません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私達に対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
ここから三つのポイントで神様の愛を考えたいのです。
あなたの弱さを理解される神
第一に、神は私達が弱かったときに行動を起こす神だということです。つまりあなたをお造りになった神様は、あなたの弱さを理解し同じ思いになられる方なのです。数年前私は東京の渋谷というところで、友人と待ち合わせをしていました。信号が変わるたびにものすごい数の人間が道を渡っていきます。ところで少しはなれた所で信号が青になるのを待っていた一人の女性が、貧血でも起こしたのかそのまま地面に倒れこんでしまったのです。その瞬間、信号は青になりました。一体何が起こったでしょう。誰一人彼女を助け起こす人は無く、皆道を渡っていくんです。それどころか後ろから来た人は、彼女をまたいで道路を渡って行くんですね。皆さんそれぞれに用事があって、急いでいるに違いありません。しかし地面に倒れた彼女は、まるで存在していないもののようでした。誰一人同情せず、助け起こさず、何事も無かったかのように淡々と道を渡っていくのです。しかしこの光景こそは、神なき世界のひな形なのだと思うのです。
今、銀河系宇宙には太陽系のようなグループが二千億以上存在していると言われています。この広大な宇宙にとって、太陽系の中の地球という小さな星にいる、埃のように小さい人間がある時生まれようが死のうが意味は有りません。宇宙には人格が無いからです。あなたがどれほど苦労しようが、泣こうがわめこうが、苦しもうが、気を失って倒れようが、宇宙は何事も無かったかのように淡々といつものように動くだけです。宇宙にとっては、あなたの人生に何があろうが関知しません。あなたのすることも、あなたの存在そのものについても、何の価値も意味も認めないのです。あなたはこの人生観に耐えることが出来ますか。神がないという人生観とは、道端で倒れたあなたがまるで存在していないのと同じようにみなす世界で生きるということなのです。しかし神はおられるのです。この宇宙を作り、地球を用意し、あなたに人生を与えた方は、あなたのことを見守っておられる神なのです。人生を無意味にしてしまうのは神ではなく、「神などいない」という考えが人生を無意味にしてしまうんですね。
人間を愛せずにはおれない神
第二に、神は人間がどれほど神様に反逆し無視し、背中を向けて生きていたとしても、それでも愛することをおやめにならない方なのです。
私は全国に講演旅行に行くと、いつも頼まれることが一つ有るんですね。それは家族写真を見せて欲しいということです。それで私の聖書の中には、五年ほど前にユニバーサル・スタジオ・ジャパンで取った写真が一枚入ってるんです。それはUSJの方が、アトラクションの一環として撮ってくれたものです。皆さんこの写真を回してしげしげと眺めてくださるんですが、そんなことが五年も経つとさすがに写真は指紋だらけです。いやそれどころか擦り切れ、折れ曲がり、心なしか色あせています。はじめもらったばかりのときの状態と比べると、随分痛みが激しくみすぼらしいものになってしまいました。しかしそれでも、私にとっては価値ある一枚です。なぜなら私の手許にネガはなく、デジタルカメラの情報もないからです。いかに色あせ、損なわれ、最初よりもみずぼらしくなったとしても、そこに写っているのは紛れも無い私の愛する家族達の姿なのです。それと同じように、いかに人間が神様から離れ、本来造られたときの崇高さを失い、落ちぶれ果てていたとしても、それでも人間には神様の形が宿っているのです。どんな人間にも、神の人格に似せて造られた痕跡が残っています。今は罪にまみれて、すっかり変わり果ててはいるものの神様の目には忘れがたい愛するものなのです。しかし人間は、神への反逆という自分の選択によって死と死後の裁きという結末を選び取ってしまったのです。
私たちの罪を背負われたイエス・キリスト
聖書は人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっていると語っています。この死と死後の裁きとの原因は、人自らが選び取った罪なのです。しかし、聖書はこの罪を、人間ではなくイエス・キリストの上に背負わせ、この方が身代わりに裁きを引き受けてくださったのだと宣言するんです。これが第三のポイントです。この方の身代わりの死と、三日目の復活によって私達は罪許され、神の子として受け入れられるのです。
許される場所
子供がまだ幼かった頃、私は息子に訊いて見ました。「君にとって一番好きな場所ってどこ?」。彼は「う~ん」と考えて言いました。私は多分USJって言うんじゃないかなぁ、あるいは集会って言うかもしれないなぁ、もしかしたらスーパーマーケットって言うかも分かりません、そこには彼の大好きなおやつが山のように積まれて売ってあるからです。しかし、彼の答えは意外でした。こう言ったんです、「許される場所かな」「許してくれた場所って、ウキウキして良いな。ごめんなさいと言って許してもらえたところには、隠し事はなく、緊張もなく、ほっとして安心でみんな笑顔で喜び合える。赦された場所が一番いいわ。」って言ったんです。そうですね。神様によって赦された場所ほど素晴らしい所はありません。キリストは十字架と復活であなたを赦して、あなたの住まいとなられた方です。
どうぞあなたも、キリストを信じ救われてください。心からお勧めしたいと思います。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。