No.555 2010年11月14日 「罪を解決するキリスト」
おはようございます。高原 剛一郎です!
先日私の講演を聞きに来られた方の中に、太陽電池の開発研究者の方がいらっしゃいました。何でも彼の話によると、地球が太陽から受け取っているエネルギーの量は莫大なもので、もしゴビ砂漠にソーラーパネルをびっしり敷き詰めたら、全人類の電力需要をまかなうことが出来るそうです。
奇跡的設計者の存在
ところでソーラーパネルっていうのは、太陽の光を電気に変換する装置ですが、変換効率はなんぼ良くっても20%位だそうです。太陽の熱を電気に変換する発電機の場合は、変換効率が30%から40%位にはなるそうです。しかしどんなにがんばっても、100%の効率にすることは出来ないそうです。変換する時には必ずロスを生むからです。
ロスの無いエネルギー変換は、理論上有り得ないんだそうです。
ところが自然界には、太陽の光を100%の効率でエネルギー変換できるものがあるそうです。それは植物の光合成なんですね。しかもその変換スピードが奇跡的なんだそうです。太陽の光が緑の葉っぱに届くと、66ピコ秒後にはデンプンと酸素が合成されているって言うんです。1ピコ秒が1兆分の1秒です。つまり植物は太陽の光を浴びるやいなや、次の瞬間に反応を終えているって言うんですね。「こういうエネルギー変換装置っていうのは、理論上あり得ない。そのあり得ないものが自然界に満ちているのを見ると、奇跡的設計者がそれをこしらえたとしか思えないんだ。」っていう風におっしゃてました。
あなたの造り主なる神、キリスト
あるときキリストはこのようにおっしゃったのです。「野のゆりを見なさい。今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ神はこれほどに装ってくださるなら、ましてあなた方に良くして下さらないわけがありましょうか。」と。神様は光合成の作者ですが、同時にあなたの作り主でもあられる方なのです。今日はこの神様の福音をお伝えいたしましょう。聖書の中にこう書いてあります。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
今日は二つのポイントでお話しいたしましょう。
キリストは何のために来られたか?
第一にキリスト・イエスは罪人を救うために来られた方だ、ということです。正しい人のため、立派な人のため、罪と無関係の人のためではなく、神から離れ、人生に迷い、自分の罪を自覚してあえぐ人のために来てくださったのです。
昨年私はある集会に招かれて聖書のメッセージをしに行きました。するとそこに鍼灸、いわゆる鍼の先生がいらっしゃったのです。全国に300人くらい弟子がいるという、名人の方ですね。クリスチャンである奥様に誘われて、もう半年ほど集会に来られている方なのです。この方が面白いことをおっしゃったんですね、「実はある方の肩こりは、直しても直してもすぐに再発する。」というんです。不思議なくらい直っても直っても悪くなる、生活習慣に問題は無い、事故したわけでも怪我したわけでもない、病気になってるわけでもない。背骨や骨盤がずれているわけでもない、でもひどい肩こりなんだそうです。そして彼曰く「その原因は骨のずれではなく、心のずれでした。」っていうんです。自分にとってとっても大切な人に、嘘をついたりごまかしたりしてると、その嘘を最後までつき通すために心に負担が掛かるんですね。「それが肩こりになって現れるんです。」という風におっしゃってました。「だからある患者さんは、私の治療院に来るよりキリストの福音集会に行った方がいいと思ってるんです。」っておっしゃったんですね。本当に罪っていうのは自分で背負い続けることは出来ないのです。それは心を蝕み、腐らせ、人生を滅ぼしていくものです、だからこそキリストが来て下さったのです。
絶望の極みを経験されたキリスト
昔、クリスチャン作家の三浦綾子さんが人生に絶望してどん底に落ち込んでいたとき、友人から勧められ聖書を読むようになりました。そして聖書から、神様の語りかけを聞いたように思うっておっしゃるんです。いったい、聖書は彼女に何を語ってくれたんでしょう。「絶望することは無い、人間はもっと絶望できるんだ。」と語ってくれたっていうんです。彼女の経験した絶望より、もっとひどい絶望、もっと醜い失敗、もっと取り返しのつかない人が聖書の中には次から次へと出てくるんです。そしてその誰よりもひどい絶望を、キリストが十字架の上で味わって下さったことを聖書は示してくれたというのです。
十字架上での絶望の意味
罪の無いキリストが、何故十字架の上で絶望しなければならなかったのでしょう。あなたの絶望の原因である罪を、あなたに代わって背負い永久処分するためであったのです。キリストはあなたの罪を完全に償い切ってくださったのです。
この世では罪を犯した時、様々な賠償方法がありますね。殺人罪ですら罪の償いが裁判で言い渡されます。しかし、人は本当に罪を償うことが出来るんでしょうか。たとえ刑罰を受けて賠償金を払ったとしても、それで亡くなった人が生き返るわけでは有りませんね。実は人のする償いは、償いではないのです。償ったことにしてもらった、のに過ぎないのです。また償われたことにしてあげたのに過ぎないのです。
本当の罪の償いは、人には出来ないのです。だからこそキリスト・イエスが、あなたのために来てくださったのです。この方はあなたの罪を背負って、あの十字架の上で死に、墓に葬られ、三日目に復活してくださいました。そしてこの方を自分の救い主として信じる者の、全ての罪を赦し、永遠の命を与え、神の子とし、天国に国籍を持つ者としてくださるのです。
真実な神のことば
私は今から15年前に会社をやめ、キリスト伝道者となりました。当初私には、恐怖の奇跡が年に2回やってきたのです。それはボーナスのシーズンです。実は私はサラリーマン時代、マンションを購入したんですがローン返済のプラン上、ボーナスの月にはとても高額な支払いがやってくるんです。サラリーマン時代楽しみであったボーナス月が、やめた後は恐怖のシーズンになったのです。初めは貯金を崩していましたが、貯金も底をつき、引き出しの小銭までかき集めても足らないような状態になってしまったんです。
途方にくれていたある時のこと、とある出版社から電話が入ったんですね。それは私が以前書いたあるエッセイを買いたい、ついては契約を結んだら原稿料を払いたいという風に言うんです。その額を聞いて、私はホッとしました。なんとかこれで支払いが出来るように思ったからです。しかしその時、主の声を聞いたように思いました「お前はまだ出版社から金が振り込まれていないにもかかわらず、出版社の約束の言葉だけでこんなに喜びに満たされてるのか。ならば神である私の約束の言葉についても、もっと喜んではくれないか。」と。「神様本当にその通りです。」と悔い改めたのを覚えています。神様の言葉は真実です。
どうぞあなたも、罪びとを救うためにこの世に来られたこのイエス・キリストの福音の言葉を、そのまま受け入れるに値するものとして信じてください。
心からお勧めしたいと思います。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。