No.547 2010年09月19日 「人生維新をもたらす悔い改め」
おはようございます。高原剛一郎です!
先日私は、「幕末維新とバイブル」というテーマで聖書講演を致しました。近代まれに見るほどたくさんの方が来会され、感謝致しました。と同時に、幕末から明治維新について、関心を持つ方々がこんなにも大勢おられると言うことに驚いたんです。ところで、幕末維新の維新とはどういう意味でしょう。維新の維というのは繊維の維ですね。これは綱とか、ロープという意味があります。そこから転じて何かの土台に繋がる、或いは繋げると言う意味があるんですね。
明治維新はザ・メイジ・リストレーション
英語で明治維新を何というかご存じでしょうか。ザ・メイジ・リストレーションです。維新を英語にするとリストレーションなんですね。では、リストレーションって何でしょう。復旧っていう意味です。古きに帰る、元に戻す、初めに回帰する、と言う意味です。政治用語としては、王政復古と訳されます。要するに原点に戻る、立ち返るっていう意味なんですね。では人間にとっての原点って何でしょう。帰るべきところが分からないと帰りようがありませんね。聖書はこの帰るべき原点について語っている書物なんです。こう書いてあります。
「わたしはユダヤ人にも、ギリシャ人にも神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
聖書がはっきりと主張している内容を簡潔に語れと言うなら二つに絞ることが出来ます。すなわち、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰、この二つです。
神に対する悔い改め
第一は、神に対する悔い改めということです。聖書が語る神さまは人間の都合でこしらえた宗教の神々のことを言っているのではありません。人間が作った神々のことではなく、人間を造られた方を指しています。人間だけではありません。この全宇宙、すべてのいのちを造られた作者のことを神と呼ぶんです。この神に対して人間はまず悔い改めなければならないと言うんです。じゃあ、悔い改めって何でしょう。これはギリシャ語ではメタノイヤということばです。直訳すると考えを変えるっていう意味なんです。真の神さまから長らく離れて生きている人間は、たとい神を考えたとしても、考え違いをしているので、根本的にその考えを改めなければならいって言うんです。一体どの点で、考えを変えねばならないのでしょうか。
コスモスの花のように
私は今まで本を二冊出版しています。一冊目は是非書きたいと思っていた本です。なぜなら、キリストの福音を分かりやすく解き明かして本であるからです。しかし、二冊目は、絶対に書きたくない本でした。なぜなら、妻の死について書いた本であったからです。昨年の丁度今月、愛する妻は天国に召されていったのです。しかし、死を前にした彼女の態度は、残された私たちに深い印象とキリストに対する確信を与えてくれるものでした。私はこの妻とのやりとりを書き残しておく義務を負ったように感じました。それで、彼女とのやりとりについて書いた本を出版したのです。「コスモスの花のように」というタイトルです。ところが、この本を読まれた方の反応が真っ二つに分かれるんです。
真っ二つに分かれる反応
ある方々は、神を信頼することの幸い、神に従うことの祝福、神を中心にする人生の輝きが分かりました。私もそんな人生が欲しいのです。と言って各地集会に行かれるようになりました。中には信仰告白をして、洗礼を受ける方々も少なからず起こされているのです。
ところが別の方々は、この本を読んで、がっかりしたとおっしゃるのです。というのは、「神さまに病気が癒されるようにあんなに一生懸命祈ったのに神さまはその願いを叶えて下さらなかったんですか。神さまを信頼しても祈りが聞かれないなら、その信仰に何のメリットがあるんですか。この本を読んで、私は返って混乱してしまいました。」と言われるのです。どうして混乱なさったんでしょう。それは神に対して間違った期待、誤った考えを持っていたからだと思うのです。その間違いをまとめると、大体次の三つになると思います。
神は私の願いをいつでも聞くべきだという考え違い
一つ目は、神は私の願いをいつでも聞くべきだという考えです。お願いを聞いてくれない神などいらないって言うんですけど、しかし、人間のいいなりになる神、人間の欲求に対してノーという資格のない神を果たして神と呼んで良いのでしょうか。それでは神と言うより、アラジンのランプの大男と違いがありません。この考えの根底には、「何が最善であるかを決めるのはこの私なのだ」というおごりがあるように思うのです。この世も人生も、私の欲求を満たすために存在しているという間違った前提、間違った期待があります。しかし、この私本意の世界観こそは、人が改めなければならない罪なのです。
神はこの世で私を幸せにすべきだという考え違い
二つ目の考え違いは、神はこの世で私を幸せにすべきだという考えです。しかし、聖書によるならば、この世は神から離れた不完全な世界なんです。神さまが究極的に準備して下さっている幸いは、この世ではなく、天国にあります。それは、この世よりも遙かに素晴らしいものです。なぜなら、この世にいる間は長くても100年くらいです。しかし、天国は永遠に続く世界であるからです。100年くらいしかいない世の中で、仮に100パーセントパーフェクトな幸せがあったとしても、いずれは死によって、すべて手放すことになるのです。この世は実は通過点にしか過ぎないんですね。この世をゴールに据える人生観は刹那的なのです。
苦しみを与える神は残酷な神だという考え違い
三つ目の考え違い、それは苦しみを与える神は残酷な神だというものです。しかし、それもまた浅い見方であるんです。
あるりんご園が大干ばつに襲われました。並み居るリンゴの木々は次々に立ち枯れていくのです。しかし、とあるりんご園の木だけは、実がたわわになっているんですね。どうしてここのリンゴの木だけがこんなに逞しいんですか。どうしてこんなにタフなんですかと尋ねられたとき、そのりんご園の農場主はこのように言ったのでした。「私は、このリンゴの木を植え付けるときに、水をほとんどやらないようにしたからです。若木の時に極限まで水分をやりませんでした。そのために、木の根は水を求めて、地中の奥深く、奥深くへと伸びていき、こうしてびくともしない大木に育ったのです。」と。
主イエスに対する信仰
この地上で苦しみがあるのは、神が私をいじめておられるのではありません。神さまが私を不幸にしようとしているのではないのです。むしろ私が神と一層しっかりと結びつくための天の配剤なのです。それは訓練なのです。このように考えを変えた罪人を神にしっかりと結ぶ方が、イエス・キリストという方なのです。私たちが神に立ち返るのに必要なことはすべてイエス・キリストが十字架と復活によって成し遂げて下さいました。どうぞ、あなたも神に対する考えを変え、イエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちを頂いて下さい。心からお勧めしたいと思います。
ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。