No.546 2010年09月12日 「罪がもたらす問題点と解決者キリスト」
おはようございます。高原剛一郎です!
今から6年前、オリンピック発祥の地のギリシャで、アテネオリンピックが開かれました。この時、ライフル射撃の種目で、金メダルを取った選手にマット・エマンズという人がいます。彼は2種目制覇を狙ってたんですね。二つ目の種目でも彼の成績は他の選手を圧倒していたのです。誰もが彼の2個目の金メダルを確信しました。ところが、事件が起こったのです。最後の標的になったとき、彼は見事ど真ん中に命中させたのですが、それは隣の選手の標的だったんですね。自分の的を打ち抜くより隣の選手の的を打ち抜く方が遙かに難しいんです。その難しい的を見事に打ち抜きながら、審判員は外れにカウントしました。なぜなら自分の的を外していたからです。このため彼は一気に8位まで落ち、2個目のメダルを取り損ねたのです。
ギリシャ語でハマルティアとは的を外すこと
この的を外すことをギリシャ語でハマルティアと言います。そしてこの的を外れこそは、聖書で罪と訳されていることばなのです。罪とは一体何でしょう。神という人生の的から離れて生きることなんです。そして、神から離れて生きている人に対して聖書は次のように語りかけています。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
神を見失うと自己中心の人生になる
ところで、何故神から離れることが大問題として聖書の中で取り上げられているんでしょう。第一に、神という中心を見失うと、自分を中心にして人生を生きることになるからです。そして、自分を中心に生きるとき、人は必ず人生に不満を持つようになるのです。かくいう私もその一人です。
自らを神の立場に置く人は不幸になる
実は私はマンション住まいなんですが、かつて同じマンションに苦手な隣人が住んでいたんです。一組の夫婦なんですが、挨拶しても返事をしてくれないんですね。お辞儀をしてもお辞儀を返してくれません。はっきりと分かることばで「おはようございます。」「こんばんわ」という風に挨拶しても、完全無視をして二人で何事もなかったかのように会話をするんですね。実に感じの悪い夫婦でした。彼らと会うとなんだか不愉快になるんです。しかし、よく考えてみたら、彼らは私に挨拶を返さねばならないという義務がないんです。返事をするのも、無視するのも彼らの自由であるはずです。ところが、私は無視されると、とても立腹してる。なぜでしょうか。それは、「私の近くにいる人は、私が気分良く生きるために、協力すべきだ。世の中は私が気持ち良く生活するために、存在しているのだ」という誤った前提に立っていたからです。世界は、私が幸せになるために存在しているのではありません。私のためにあの人、この人、この世の中が存在しているのではありません。万物の存在の目的は神です。すべてのものは神のために造られ、神のために存在しているんです。それなのに、まるで私が神であるかのように考えて生きているので、思い通りにならないことが起こる度に、怒りが湧いてくるんですね。神を見失って自らを神の立場において生きることは、人を不幸にするのです。
神を離れる人は神ならぬものを恐れる
第二に、まことの神を離れて生きる人は、神ならぬものを神として恐れて生きるようになるからです。
以前、オウム真理教というチベット仏教のカルト集団が、地下鉄に化学兵器のサリンをまいて日本中を大混乱に陥れたということがありました。彼らの教義は殺人を施しとする思想です。教祖の麻原彰晃の言われるままに弁護し一家を殺したり、誘拐事件を起こしたりしていました。不思議なことは、このおぞましい教祖を取り巻いていた側近たちが、そのほとんどは超一流の国公立難関大学を出た秀才たちであったと言うことです。どうして、頭脳明晰な青年たちがひげもじゃの40男にひれ伏したんでしょう。本物の神を知らなかったからだと思います。この天地万物を創造されたまことの神を知らない人は、簡単に人間崇拝の道に陥ってしまう可能性が高いのです。
この夏、会社の不正事件が続発しましたが、みな上司の命令が不正だとは分かりながらも逆らえずに協力することで、犯罪の片棒を担いでしまったのです。どうして上司に魂まで売り渡してしまうのですか。まことの神を知らないと上司が神になってしまうからです。
神から離れた結果永遠の死
第三に、神から離れた結果は、永遠の死、永遠の地獄に堕ちていくという結末が待っているからです。私たちの造り主である神さまはそれを望んでおられないからこそ、罪人のために救い主イエス・キリストを送って下さったのです。
毒入りクラッカー盗難事件
アメリカでは毎年、何万台もの車が盗難に遭うそうです。従って車が盗まれたと言うことなどいちいちニュースにはなりません。しかし、1985年ある車の盗難事件が新聞の一面を賑わせるということがありました。一体なにがあったんでしょう。ある男性が別荘を持っていたのですが、そのログハウスにネズミが繁殖して彼は困ってしまったのです。それで持ち主はネズミ退治のために毒入りクラッカーを用意したのです。彼は出かけようとして、車に乗り込みましたが、眼鏡を忘れたため、別荘に戻りました。その隙に車が盗まれたのです。そして、その車内のダッシュボードにもう毒入りのクラッカーがおいしそうなパッケージに包まれて置いてあったのです。
彼はすぐに警察に連絡しました。「毒物を積んだ車を一刻も早く捜して下さい」と申し出たのです。さらに、犯人に直接警告するため、テレビやラジオ、新聞、ありとあらゆるメディアを使ってひっきりなしに自首するように出てくるようにと呼びかけたのです。どうしてそんなに一生懸命泥棒を見つけようとしたんでしょう。泥棒をとっつかまえて懲らしめるためでしょうか。いいえ、彼の命を救うためです。
そのまま受け入れるに値することば
神の呼びかけもまた同じなのです。聖書が人間の罪を鋭く指摘するのは、人間を惨めにするためではありません。救うためです。神さまが必死にあなたを追いかけているのは、あなたを懲らしめるためではありません。救うためです。あなたを永遠の滅びから永遠のいのちへと救うために必要なことはイエス・キリストがすべて成し遂げて下さいました。キリストはあなたの罪のために、今から2000年前、十字架に架かって身代わりの死を遂げて下さいました。そして、墓に葬られ、三日目に死を突き破ってよみがえって下さったのです。
あなたが救われるために必要なことはすべてキリストが成し遂げて下さったのです。後はあなたがこのキリストを心に受け入れることだけなのです。ぜひ、イエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れて下さい。なぜなら、それはこの約束のことばは「そのまま受け入れるに値することば」であるからです。心からお勧めしたいと思います。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。