No.544 2010年08月29日 「神との和解」
おはようございます。尼川匡志です!
スポーツの試合にミスジャッジはつきものです。先日、アメリカ大リーグの試合でタイガースのアルマンド・ガララーガ投手が、あわや完全試合の達成のところを、審判の誤審によって、幻になってしまったというニュースを聞きました。
あと一人で完全試合が成立する9回裏、ツーアウト、ランナーなし。最後のバッターの打球は、平凡な内野ゴロでした。ボールは野手からベースカバーに入ったガララーガ投手にトスされました。タイミングは完全に『アウト』。観客たちは完全試合達成に歓喜しようとしたその瞬間です。なんと一塁塁審が『セーフ』をコールしたんですね。完全試合は無くなりました。球場は大ブーイングに包まれ、監督も選手達も激しく審判に詰め寄り、抗議しました。でも、一度下った判定は覆りません。完全試合は幻に終わってしまったんですね。
自らの誤りを認めた審判
試合終了後、この一塁塁審はビデオを見て青ざめたそうです。そこに写っていたのは明らかな誤審でした。この審判は、自らの誤りを認めました。しかし、時すでに遅しです。失われたガララーガ投手の完全試合は、2度と戻る事はありませんでした。
人間の主観はいい加減なもの
このことから今日二つの事を考えてみたいと思います。まず一つ目は、人間の主観というものが、いかにいい加減なものかということです。私たちは日常生活の中で色んな事を判断しながら生きています。その判断基準はあくまでも自分の主観です。そして「それは正しいんだ!」と私たちは信じているんですね。
例えば、ある人と議論になったとします。あなたは『この結論はAだ』と判断します。しかし、相手は『いいや。Bです』と主張したとします。平行線ですね。そのような経験は誰にでもあると思います。そんな時、私たちはどう思うでしょうか。『絶対にAだ。わたしが正しくて、あの人は間違っているに決まってる』と考えないでしょうか。でも本当に自分の判断が正しいといえるんでしょうか。
自分のからだでさえ正確に判断できない
先日、私は近所の診療所に行ったんです。月に一度、血圧のチェックをするためでした。その時、ドクターに『調子はいかがですか?』と聞かれたんです。『最近はとても調子がいいんですよ』と答えました。そして、いざ血圧を測っみると、上が150、下が100だったんです。先生は思わず『高いですね〜』と驚かれました。自分では体調は、すこぶる良いと感じていたんですが、データによれば、私の感覚や判断と違った状態にあったんです。自分の感じていることや思っていることが正しいとは限りません。私たちは自分のからだの事でさえ正確に判断できないんですね。
本当に『神はいない』のでしょうか?
さて、皆さんの中にはもしかしたら『神はいない』と思われている方がおられるかもしれません。でも本当にそれは正しことでしょうか?もしかしたら、それはあなたの思い込みかもしれません。
私たちの住む地球には、秩序と調和が溢れています。私たちの身体もそうですよね。この素晴らしいメカニズムは果たして偶然によって生まれるものでしょうか?
調和や秩序は偶然によっては生まれません
私の子供たちが小学校の時。運動会の時のことです。学年全体での器械体操でした。それは見事に調和が取れ、秩序がありました。これを見たとき『私は、さぞ指導された先生方は、苦労されたんだろうな』と思ったんですね。夏の甲子園や国家的な祭典でも時々これ以上の素晴らしいマスゲームを見ることがあります。果たしてそれらは偶然によって出来るのでしょうか?答えは否です。10年やり続けても、たとい100年やり続けたとしても、完全な調和や秩序は、偶然によっては決して生まれません。それを作り上げるには、まずそれを指導する側に完全なイメージが必要なんです。そして、その完成形に近付けて行く、たゆみない努力が必要なんですね。ではこの地球や私たちのからだの調和や秩序はどのようにして、こんなに見事に出来上がったのでしょうか。それは『このようにしよう』という完成イメージに沿って造られたと考えるのが妥当です。そして、聖書は地球や人間の完成のイメージを持ち、それに基づいて造られた存在のことを、創造主、神と呼んでいるのです。『神はいない』というあなたの判断は、本当に正しいんでしょうか。
人のした過ちを赦す
二つ目の事を考えたいと思います。このガララーガ投手は、完全試合を逃した時、明らかに審判のミスジャッジと分かっていながら、『人間にはパーフェクトなんてありませんから。』と言ってこの審判を一切責めなかったそうです。
人間にとって最も難しいことの一つに『人のした過ちを赦す』ということがあります。聖書の中にこんな記事があるんです。
人の罪は何度まで赦すべきでしょうか?
ある日のことです。ペテロがイエスの元に来て尋ねました。『人が私に罪を犯した場合、何度まで赦すべきですか?七度まででしょうか』するとイエスは『七度の70倍だ』と答えられたのです。つまりどこまでも赦しなさいと言われたんですね。皆さんはそんな事がお出来になるでしょうか?七度なんててもとても』と思ってしまいますよね。しかし、イエスはなんと『七度の70倍だ』といわれたんです。
なぜそのような事を言われたのでしょうか?私たちが道徳的な良い人間になる事を望んでおられたからでしょうか。そうではありません。ではなぜでしょうか?実は『怒り』には、全てのものを破壊し尽くしてしまう様な、強烈なエネルギーが潜んでいるんです。逆に『赦し』には、全てを包み込んで再構築する素晴らしい力があるんですね。つまり『怒り』を爆発させる事で私たちは何かすっきりしたように思うんですが、実は自分自身を苦しめ、そこなう結果を産むという事が結構多くあるんです。逆に『赦し』には、難しいですが、私たちの心を穏やかにし、人生を豊かで平安なものに変える力を秘めているんです。イエスは、私たちがそこなわれることなく、守られるようにこの様に語って下さったんです。
私たちこそ赦してもらわなければならない存在
そして、私たちはさらに重要な事を知らなければなりません。それは私たち自身が神の前に『赦してもらわなければならない存在』だという事です。私たちは、地球やその中の全ての命を造られた神を無視して、自分を中心にして生きています。知らず知らずの内に過ちを犯しています。そして、人を傷つけているんです。正しく生きていると言い切れる人なんて一人もいないんですね。何度でも赦してもらわなければならない存在とは、実は私自身なのです。イエスはその赦しの道を開くために、この世界に来られました。そして十字架にかかり、身代わりの罰を受け、父なる神に『父よ彼らをお赦し下さい』と命がけの訴えをされた方なのです。この訴えは聞き届けられました。私たちの赦しの道は2000年前に完成したんです。
先程の審判は自分の誤審を認めました。同じ様に私たちも「自分は誤りのある存在だ」と認めることが必要です。そしてその時、神と私の和解が成立するのです。是非今日、この和解を受け入れて下さることをお勧めしたいと思います。
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。