No.538 2010年07月18日 「聖書の語る人間観」
おはようございます。高原剛一郎です!
北海道の旭山動物園にはキリンの視点で園内を見渡せる双眼鏡システムがあるそうです。中を覗いた人はびっくりするそうですね。高さ5メートルで見ると、世界はこんなに違って見えるのかと驚くんです。さらにもう一つびっくりするのは、覗いた世界は白黒の世界なんですね。実は野生動物の多くは、人間のようにカラーで世界を見ているのではなくモノトーンの世界に生きていると言うんです。そしてそれが分かると動物のデザインに意味があるということが分かってくるんですね。
シマウマという動物
例えば、シマウマという動物がいますね。文字通り縞模様のウマです。あのデザインはサバンナにいるとかえって目立つんですね。というのは背景が緑や褐色だからです。ところが、シマウマの天敵である肉食獣はライオンを初めとしてみんな一様に白黒でしか見ることが出来ないのです。そして白黒で見ると白と黒の縞模様はサバンナの背景に完全にとけ込んでしまうためにとても見つかりにくくなるって言うんですね。シマウマはライオンの見え方がどのようなものなのか知りません。ライオンになったことはないし、人間みたいにライオンの眼球の仕組みを調べるすべがないからです。シマウマのデザインにシマウマの意志がかかわっていないことは明らかです。
この世界を創造されたプログラマ−
では、どうして肉食獣から身を守るのに、一番都合の良い姿をしているんでしょう。そのような柄物の体になるようにDNAにプログラムされているからです。プログラムがあるならばプログラマーがいるはずです。そのプログラム内容がシマウマの身を守るのに見事な内容であればあるほど、偉大なプログラマーがいるということの証明になるのではありませんか。
この世界を見事に創造なさったプログラマ−、設計者、造り主が確かにおられるのです。そして、シマウマが生きて行くのに最高のデザインを与えられているように、神はあなたにも惜しみなく最高のデザインをお与えになられたのです。
仏教ではもっぱら無我
ところで、私って一体何者だと思いますか。仏教ではもっぱら無我ということを説くんですね。無いに我と書いて無我です。どういう意味でしょうか。私という普遍特別の存在なんか無いという意味です。すべては変化するもので私と言えるものはない、今私は男性で、父親で、会社員だとしても来生では全く別の存在に生まれ変わるんだから、今の私なんて幻に過ぎないという考えです。自分が幻に過ぎないなんて悲しいと思えますが、悲しんでる私が幻なのでその悲しみも幻なのだと。だからすべてが幻と割り切って執着を捨てると言うことが悟りとなり、それが救いになるというのが仏教の教えです。
日本人の考え方は無私
では、日本古来の先祖は私というのをどう考えていたんでしょう。日本人の考え方は無我ではなく、無私です。無いに私と書いて無私。これは無欲の私という意味なんですね。献上の美徳です。私を小さく慎ましくすることが素晴らしいんだ−。小さく慎ましくするためのもの、それが私だ−ということなんですね。そういう態度は素晴らしいという風に教えるんですが、私とは何かという点を掘り下げて考える伝統が日本には余りないんです。この日本人の考えと仏教で1つ共通している点がありますね。それは、自分に宿っている力に対する信頼です。仏教の場合は、仏生に目覚めよと言い、日本の伝統的な見方では、清浄なる心、清い心が自分の内側にあるのでそれに徹底するようにという風に言うんです。
しかし、聖書は何と言ってるんでしょう。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」これが人間というものです。と言うんです。
神によって作られた最高傑作「人間」
聖書によると私という人格は、神によって作られた最高傑作です。独自の何にも代え難い存在なのです。しかし、創造主から離れ、神に背中を向けて自己中心の生き方に染まって生きている存在なのです。この神といういのちのルーツと切断して生きて居るので、無欲になれと言ってもそれは不可能になりました。自力更生が出来ない存在なんです。赦しを必要とする存在なのです。
ヘミングウェイが紹介したエピソード
アメリカにヘミングウェイという作家がいました。彼がインタビューの時によく紹介したエピソードがあります。スペイン人の父親が家出したパコというなの息子と和解する決心をするんです。今では自責の念にさいなまれている父親はエル・リベラルというスペインの大新聞に大々的に広告を出すんですね。「パコ、火曜日正午にホテルモンタナで会って欲しい。何もかも赦してる」父より。父親は当日ホテルモンタナへ行きました。すると驚くべき光景がそこにあったのです。何と800人ものパコという名の青年がそれぞれ自分の父を待っていたというのです。
人間にとって最も大事な存在は神
大事な人との和解を求めている青年が、何と多いことでしょう。大事な人との関係がこじれてる人は中々他の人との関係においても健全なものを結ぶことができなくなります。しかし、人間にとって最も大事な存在は、人間を造った神、あなたの魂の親である方なのです。この神さまが私たち一人一人に、罪の赦しを申し出て下さっているのです。どのようにして罪を赦して下さるんでしょう。キリスト・イエスの購いのゆえに赦して下さると先ほどの聖書は語るのです。
三浦綾子さんの積木の箱
クリスチャン作家、三浦綾子さんの作品に、積木の箱という小説があります。主人公はある時、勝手気ままでやりたい放題をし、周りの人々は大変迷惑を被るというストーリーです。ある時、三浦綾子さん宛に読者から手紙が届きました。「三浦先生、ぜひあの小説の続編を書いて欲しい。続編の中であのふてぶてしい人物に人生のけじめを付けさせて欲しい。酷い目にあわせて懲らしめてやって欲しい。そうでないと気分が晴れない。」って言うんですね。それに対して三浦さんは、こう返事をなさったそうです。「私は続編は書きません。その代わり、これを読んで下さい。ここには罪に対する神の対処のすべてが書かれてありますから。」
キリストを自分の救い主とする
同封されていたのは、聖書でした。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることは出来ません。しかし、この罪人の罪を完璧に赦すために、神はご自分のひとり子イエス・キリストをあなたの身代わりとして、裁いて下さったのです。キリストは十字架の上で、あなたの罪を背負ったまま、神の裁きを引き受けて下さいました。そして、死んで墓に葬られて、三日目に死を突き破って復活されたのです。だれでもこのキリストを自分の救い主とするならば、神の罪赦され、神の子として頂くことが出来るのです。
最も幸せな所は赦されるところ
次男がまだ幼かった頃、私は彼に「どんなところに行きたい?君の好きな場所はどこ?」と聞きました。遊園地かな、動物園かな、公園かなと思っていると彼は一言「赦されるところ」と言ったのでした。「何で」と聞くと、「赦されると笑いがある、喜びがある、うれしさがある、楽しさがある。」と言ったんです。よく叱れた彼のことばには実感がこもってましたね。最も幸せな所、それは神の赦しのあるところです。どうぞ、あなたもこのキリストを信じて、赦しの場所に立って下さい。心からお勧めしたいと思います。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。