No.535 2010年06月27日 「誰も覆せない事実キリストの復活」
おはようございます。高原剛一郎です!
ある美術館に悪魔とチェスをしている男の絵があるそうです。ファウスト博士という絵です。この勝負に負けると男は悪魔に魂を売り渡さなければなりません。恐るべきことに勝負は悪魔の勝ちでほぼ決まりかけているんですね。脂汗を流しながら苦悩の表情を浮かべる男が実に憐れです。
ところがあるプロのチェスの差し手がこの絵を30分ほど見つめて、言いました。「見つけたぞ。逆転できる手が一つだけ残されている。これを打てば彼は勝てる。」
人生の最後には死という大問題が
これは人生についても言えます。人生の一番最後には死という大問題が待ち構えています。そして、多くの人は死はただ諦めるより他に仕方がないと思っているんです。しかし、たった一つだけ、人間の死と死後の裁きを突破する道が残されているんです。それはイエス・キリストによる救いです。
聖書の中に、キリストの弟子たちが語ったメッセージがこのように記録されているんですね。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
キリスト以外に救いはない
なぜイエス・キリスト以外に救いはないと断言出来るんでしょう。キリストだけがあなたの罪を負って身代わりとなって死に、三日目に死を突き破って復活したからです。人間が死んだ後に受ける罪の裁きは、キリストがことごとく解決して下さいました。そして、死後三日目に復活することで、死を単なる一時的現象にしてしまわれたのです。「そんな復活なんてことを21世紀の今聞いても、本当かなあ」といぶかる方もいらっしゃることでしょう。しかしそう思うのは、私たちだけではありません。キリストの弟子たちだって普通には信じられないことです。しかし、彼らは信じました。何故でしょうか。自分の目と耳と体で、キリストの復活を繰り返し繰り返し、確かめることが出来たからです。
ニューヨークでとんでもない交通事故
今から何年か前、ニューヨークでとんでもない交通事故がありました。何と警察官が酒に酔っぱらってパトカーを運転し、人をひき殺したんです。被害者の奥さんが損害賠償をニューヨーク市に求めました。しかし、ニューヨーク市は雀の涙ほどの慰謝料しか払わなかったのです。なぜなら、亡くなった方が71才だったからです。もし事故に遭わなくてもそんなに何十年も生きて高収入を稼ぐなどと言うことは考えられないと言うのがその理由です。彼女は、ある女性弁護士を雇って、裁判で争いました。その弁護士はハリー・リプシグという人です。彼女の雄弁な弁護によって何とニューヨーク市は125万ドル約1億2千万円を払うということになったんですね。
92才現役のおばあちゃん弁護士
ところで、このハリー・リプシグさんってどんな弁護士なんでしょう。何と92才現役のおばあちゃん弁護士さんですね。彼女の明快な論旨とパフォーマンスは法廷にいる人々に強力な印象を与えました。即ち「ああ、年齢と能力は関係ないんだ。高齢者でも高収入を得ることは出来るんだ。」そして、92才でのこの活躍が可能であるならば、71才で亡くなった方にも可能性はあったはずだという考えが法廷を支配したんです。常識では92才は隠居の身です。しかし、常識を覆す事実の前にみんな認めざるを得なくなったんですね。論より証拠なんです。
人間は死んだら生き返らない。これは常識です。しかし、その常識を覆すキリストの復活を弟子たちは直接見たからこそ、復活を確信し、力強く語ることが出来たんですね。
弟子たちの生き様の変化
キリストの復活が間違いない事実だと信じれる根拠の第二の理由を紹介しましょう。それは弟子たちの生き様の変化です。実はこのメッセージを語る前日まで彼らは牢屋に放り込まれていたんです。一体誰によってでしょう。キリストを十字架にかけたユダヤの当局者たちによってです。この当局者たちはいざとなったら、裁判をでっち上げて、人を処刑に持っていく力があると言うことを重々承知の上で、キリストの弟子たちは臆せず、イエスの復活を宣べ伝えました。そうすることで酷い目に遭わされるということがわかっていたのに、彼らは決して黙ったりひるんだりすることがなかったんです。一体何が弟子たちをこんなにも勇敢にしているんでしょう。ちょっとやそっとの哲学や成功哲学では、生殺与奪の権を持つ人々に堂々と振る舞う勇気なんか、出すことは出来ないと思います。この弟子たちの迫害をものともしない態度を生んだものとして考えられる唯一のことは、彼らが復活のキリストと出会ったということだけなんですね。
十字架からまだ二ヶ月
第三に、このキリストが復活が間違いなく事実だと確信出来る理由は、この弟子たちのメッセージがキリストの十字架からまだ二ヶ月しか経っていないときのものであるということです。
最愛の人の喪失感と悲しみ
私は昨年妻を亡くしました。亡くしたときは悲しみというよりも、むしろ彼女の病の苦しみが終わったという点でほっとしたのです。しかし、一ヶ月経ったとき、とてつもない悲しみがやってきました。もう、これ以上寂しいことはないと思うほどの寂しさです。ところが二ヶ月経ったとき、悲しみの二番底を経験したのです。時と共に悲しみが募るんですね。特に亡くなって二ヶ月、三ヶ月の節目は、身をもて余すほどの悲しみです。それは弟子たちにとっても同じだと思うんですね。というのは、弟子にとってもキリストは人生のすべてとなっていた方だからです。最愛にして、最高の崇拝対象であったキリストを、あの十字架処刑という惨たらしい殺され方で亡くしたままであったとするなら、それから二ヶ月目の彼らは喪失感と悲しみで元気を無くしているのに違いないんです。
キリストが死んだままではあり得ないこと
ところがこの時の弟子たちの様子は、確信に充ち満ちたものでした。聖書にはペテロたちが聖霊に満たされて語ったと書いてあるのです。つまり、神の霊に満ち、喜びに満ち、勇気みなぎり、確信が溢れ、絶対の自信を持って、当時の最高指導者たちに相対しているんです。もし、キリストが死んだままであるなら、どうしてこんな変化を、こんな態度を彼らはすることが出来るでしょう。あり得ないことです。
再会の期待で寂しがっている暇はなかった
彼らはキリストが死んだ後で復活したことを見たために、確信を持って立ち上がったのです。そして、このよみがえられたキリストが天に昇って行かれたのを見たために、勇気がなくなりませんでした。なぜなら、キリストが天から見守っているということを確信していたからです。
彼らは天に昇ったキリストが自分たちの生きている時代に、再び迎えに来るということも信じて今した。それであるので、寂しがっている暇なんかなかったんです。まもなくキリストが来ると信じていたんですね。それは今日かも知れないと期待して生きていたのでした。
あなたの側ですることが残っている
キリストの側でなさることは、すべて終わっています。キリストはあなたの罪を赦しました。死を滅ぼしました。天にあなたの住まいを用意しておられます。後はあなたの側ですることが残っているだけです。この方を自分の救い主として信じ受け入れるということなんですね。是非、この方を救い主として受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。