世界中どこでも、いつでもラジオ関西「聖書と福音」の聖書メッセージが聴ける(Web Radio) ウェビオ

Bible & Gospel

No.527 2010年05月02日「神に生かされる人生」

おはようございます。尼川匡志です!

 先日、1つのエッセーを読みました。ある時吹き抜けになっているビルの2階から、ふと1階の玄関に目をやると大きな荷物を抱えた一人の年配の女性がこちらに向かって歩いて来られるのが見えたそうです。その女性は自動ドアの前に立ち、開くのを待ってそのビルの中に入ってこられました。これを見て、こう考えたというのです。「もしこれが自動ドアのない時代ならどうだったろう。恐らく年配の女性は、自分の抱えている荷物の為にドアの前まで来ても、扉をあけることが出来ず、立ちつくしてしまったんじゃないだろうか。でもその時彼女の周りにいる人達の中の誰かが『ドアあけましょうか?』『お手伝いしましょうか』と声をかけたと思うんです。

便利な事は良いことばかりとは言えない

 確かにそのような光景は、昔、街のあちらこちらで見かけました。この本の著者は、更にこう続けておられます。『私たちが住む今の社会はとても便利になりました。でも、その便利さの中で、人と人とのつながりは、どんどん薄く、弱くなったのではないでしょうか。ちょっと声をかけたり、気軽にお手伝いをしたり、ごく普通に行っていたことが、便利さの中で、どんどん薄れていくように思えます。そのように考えると私たちの生活が便利になる事は一概に良いことばかりとは言えないように思えます。』             

本当は弱くて、支え合わなくては生きていけない

 私たち人間一人一人は実は小さくて弱いものですね。それは人間が存在してからこの方、変わることがありません。文明が発展し、科学技術や医療技術などすべてのテクノロジーが著しく進歩しても同じですね。でもそれらのテクノロジーの便利さの中で人間はもしかしたら、自分が小さいという事を忘れたのかもしれません。本当は弱くて、支え合わなくては生きていけないのに、自分ひとりで生きているように思っているのではないでしょうか。

リタイヤされたバリバリの営業マン

 私の知っている方が昨年会社をリタイヤされました。この方は元大会社のバリバリの営業マンだったんです。やり手で部下を引き連れて、夜の街に繰り出す事も多かったようです。どこに行ってもたくさんの方が挨拶してくれました。実際に彼には能力があり、営業成績も良かったんですね。この方はいつしか、自分が何かいっぱしの者だと思うようになっていったそうです。しかしリタイヤされた後、この方の生活は一変しました。会社の肩書が無ければ、どこにも行く場所がなく、誰も頭を下げてくれず、何もすることがない。その事がわかったそうです。「自分が大きな会社という看板の中で守られていたにすぎない。自分の実力ではなかったんだ。その事に気がついた。」とおっしゃっていました。

『人』という漢字

 小学校に入った頃。『人』という漢字を習いました。先生が黒板にこの字を大きく書いて『人と人とは支え合って生きています。だから『人』という字はこんな形になっているんです』って、教えられたことを覚えています。人間は一人では生きていけません。この『人』という字を、支えているものがある。という事に皆さんはお気づきでしょうか?

生きていく上で欠かすことのできない方

 私たち人間が生きていくうえで絶対に欠かすことのできないものがあります。例えば太陽・地球・空気・水・大地・ミネラル・エネルギー等々です。それらのものは、私たちとは関係のないところで、私たちがこの世界に生まれる前から、すでに存在していたんですね。実はそれらを存在せしめた方がおられるのです。この方を聖書は『神=創造主』と呼んでいます。

人生の始まりと終わりは選択できない

 私たちは自分で生きているのではないんです。少し考えてみてください。私たちは誰もが、ある時気がつけばこの世界に生まれていました。自分が誕生する為になにか努力した人は一人もいないはずです。そして男に生まれるか女に生まれるか。どんな顔でどんな性格なのか、背が高いのか低いのか。どのような能力や才能があるのか。そしてどの時代どの国のどの親の元に生まれるか。私たちは一切選んでいないのですね。
 そしていずれの日にか私たちにはこの世を去っていく時が来ます。『死』です。でもそれがいつなのか、分からないのですね。病気で死ぬのか、事故で死ぬのか、災害に巻き込まれるのか、全く分からないんです。つまり私たちは自分の死に関しても何も選択できないのです。そして生きている間も、自分の思い通りには事は運ばないということを良ーく知っています。私たちは自分の人生と言いながら、その始まりと終わりを選択できません。生きてる間も自分の思い通りにはなりません。これで本当に『自分の力で生きている』と言えるのでしょうか?

いのちの主権者

 病気が重篤になった時、体にいろんなチューブが差し込まれます。酸素も栄養もそして心臓も機械で動かされるような状態になった時、機械で生かされていると言っても良いと思います。私たちは今機械ではありませんが、自分の意志を超えたたくさんの物によって支えられて生きています。いや生かされているんです。では何によって生かされているのでしょうか?それをして下さっているのはあなたの両親でもご先祖様でもありません。あなたの意志でもないんです。では誰ですか?それが神さまです。私たちを生かしておられるいのちの主権者なのです。ですからクリスチャンであろうとなかろうと、聖書の語る『神』はすべての人にとって神、いのちの主権者であるわけです。

目的を持って生かされている私たち

 いのちの主権者がおられる。そしてその方が私たちひとりひとりを造り、生かしておられる。つまり、私たちの存在は決して偶然ではありません。私たちは大きな意志によって、目的を持って生かされているということになります。実はこのことを知ることは人間にとってとても大切なことなんですね。

 聖書にこんな言葉が書かれています。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 

計画は既に神の手の中に

 私たちは確かに弱くて小さな存在です、一人では生きていけないものです。しかし、それは「取るに足らないどうでもいい存在だ」という事では決してありません。私たちを造られた方は、私たちの人生に目的を持ってくださっています。人生の中で少々失敗しても、落ち込んでも、大丈夫です。希望を与える素晴らしい計画は既に神の御手の中に存在しているからです。それをあなたが信じ受け入れるのかどうか、それが問題です。信じた方は希望を失わず一歩踏み出す勇気を得ることが出来ます。信じない方は不安の中で、自分の価値も分からずくず折れてしまうのですね。私たちはそのどちらでも選択できます。是非、幸いな道を選び取って下さい。心からお勧めしたいと思います。


国分友里恵:生きる希望
旧約聖書 エレミヤ書29:11
 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。——主の御告げ。——それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。