No.523 2010年04月04日「喜びの源泉イエスの復活」
おはようございます。高原剛一郎です!
ある教育者のことばです。一年で何かを育てようと思うなら、花を育てること。10年で育てようと思うなら、木を植えること。しかし、一生かけて何かを育てようと思うなら、人を育てることだと言うんですね。これは人を育てる秘訣は一生かけての忍耐が必要なんですよ。と同時にそれは一生かけるに価する仕事でもあるんですよという、そういうメッセージだと思います。
復活したキリストとの再会
ところで、イエス・キリストも12弟子という人たちを育てた方です。しかし、共に生活した期間は、一生どころか、わずか3年余りだったんです。しかし、その3年間の共同生活の中で、キリストは弟子たちに福音を語り、奇蹟を示し、聖書を解き明かして行かれます。しかし、その訓練の総仕上げは弟子たちでさえ、腰を抜かすほどの大きな、大きな体験をさせることでした。それは、復活したイエス・キリストとの対面です。
十字架によって処刑されたイエスが、わずか三日後によみがえり、弟子たちの間に姿を現し、これが幻でも錯覚でもなく、現実であると言うことをイエスは確信させて下さったんですね。この復活のキリストと再会したときの状況を聖書はこう語っています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
復活したイエスを弟子たちは喜んだ
十字架という惨たらしい殺され方をしたイエスの弟子たちは、次は自分たちが命を狙われる番ではと、部屋に閉じこもって怯えていたのです。しかし、そこへ復活したイエスが、手と脇腹の傷を見せて、間違いなく十字架に架かったこのイエスが、よみがえったということを示されたとき、弟子たちは喜んだって言うんですね。ではなぜ喜んだんでしょう。その理由を3つご紹介致しましょう。
キリストの犠牲による罪の赦し
第一に、傷を見ることでキリストの犠牲による罪の赦しを思ったからです。
実は私の趣味はギター演奏です。数年前、私は誕生日のプレゼントにハンドメイドのギターをリクエストしました。とても高価なものなんですが、一生もののギターとしてどうしても手に入れたいものと出会ってしまったんです。妻はアルバイトしてためていたお金をぽんと出してくれました。うれしかったですね。それを手に入れた日は、一日中心ゆくまでつま弾いたものです。ところが次の日の朝、妻の顔色が真っ青なんです。そして私に向かって「謝らなければならないことがある」と言ってギターを指差したのです。何とギターの表面がくぼんでいるではありませんか。実は彼女が落としたCDケースが、立てかけてあったギターに直撃したため、深い傷がついてしまったんですね。妻は何回も何回も「ごめんね。ごめんね。」と言って謝りました。私は内心穏やかではありませんでしたが、赦したのです。その彼女が今から半年前に亡くなりました。
傷を見て思い出す愛
今ではギターの傷がとても懐かしいものになっています。それは彼女が生きていたときに、残していったものだからです。よくぞ傷を残していってくれたと感謝したいほどです。私はこのギターの傷を見る度に彼女が一生懸命に謝っていた姿を思い出すんですね。そして、そのようにしている彼女の姿を思う度に、彼女の愛を思い出すのです。
それと同じくやがて弟子たちはキリストの傷を思う度に、キリストが自分たちのために神に執り成し願い、必死の祈りで赦しを訴えて下さった姿を思い起こしたに違いないと思うのです。そして、キリストにそのような自己犠牲をさせた愛を思わずにはおれなかったと思うのです。キリストの上に付けられた手と脇腹の傷は十字架に架かることで付けられたものです。そして十字架は私たちの罪がキリストの血によって償われた場所なんです。傷を負ったキリストこそ、私たちの罪を負ったキリストなんです。
死の恐れがなくなったため
第二に、死が滅ぼされたので、恐れの必要がなくなったために、喜んだんです。
ところで、自然界には共生という関係があるのをご存じでしょうか。共生って言うのは、共に生きると書いて共生と読むんですね。その代表例はサメとコバンザメの関係です。コバンザメっていうのは名前はサメとついてるんですけど、鯖の仲間なんですね。頭に吸盤がついていて大型のサメにくっついてしまうんです。これによって自分で泳がなくても、連れて行ってもらえるんですね。そして、大型のサメの食べ残した魚を食らいつけます。そして、何より自分より大きい魚から身を守ることが出来るんです。自然界においては、このような方法で自分を守る生き物があるんですね。即ち自分の力で敵と戦って身を守るというのではなく、敵の敵と1つになることで我が身を守るという方法です。敵を滅ぼす敵の敵と一体となることで、敵を蹴散らしてしまうんですね。人間にとって最大の敵は、死です。しかし、この死を復活によって滅ぼしたイエス・キリストは死にとって最大の敵なのです。この死を滅ぼしたキリストと、一体になることで、人は死の支配から解放されるのです。今や、死は永久的な力をクリスチャンたちに持ってはいません。一時的現象に過ぎないのです。なぜなら、キリストを信じているものは、キリストがまた来られるときに、復活するからです。
天国を確信することが出来たから
第三に、復活のからだを持つキリストを見ることで、復活のからだにふさわしい天国を確信することが出来るからです。私は先日、とある女性実業家の方とお会いいたしました。大変活動的な方で、海外旅行が大好きなんですね。今まで行った国の数が100以上あるんです。南極にも行った、北極にも行った、アマゾンの奥地やヒマラヤにも行った。まあ、ものすごいバイタリティなんですね。私は1つ聞いてみたのです。「何故そんなにあっちこっち海外に行くんですか。」彼女はこう答えました。「私はね。人生一回しかないから、欲張りに生きたいの。私はね。びっくりさせてくれるものと出会いたいの。この世離れした美しい景色、この世離れした偉大なもの、この世離れしたスケールの大きな物、心じんじんしびれさせてくれる物と出会いたい、見つめたい。それを見るためだったら、長い旅も我慢できる。高い旅費だってなんてことはない。感動させてくれるものと出会えるんなら、安い物よ。」って言うんですね。
あなたの心を完全に満たせるのはキリスト
私もいろいろお話聞きながら「オーロラ見てみたいなあ」とか、「シロクマを見てみたいなあ、鯨の散歩を見てみたいなあ」とは思います。しかし、この世離れしたものをこの世の中で探すのはナンセンスだと思うのです。本当に偉大なもの、本当に美しいもの、本当に感動させて余りあるところをご紹介しましょう。天国です。なぜなら、天国に君臨する王は、本当に偉大な人格、究極の美そのもの、極上の平安、非の打ち所のない知恵に満ちたキリストご自身その方であるからです。あなたの心を完全に満たせるものは、この世の中にはありません。キリストの内にすべてあるのです。どうぞ、あなたも復活のイエス・キリストを信じ、この永遠の救いを頂いて下さい。心からお勧めしたいと思います。
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。