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Bible & Gospel

No.522 2010年03月28日 「神さまとの正しい関係」

おはようございます。高原剛一郎です!

 先日、私は小さなライブハウスで講演を致しました。いやー気持ち良かったですね。ものすごく語りやすいんです。自分の声が耳に心地よいのです。大きすぎず、小さすぎず、適切な音量なのに一番隅っこの席にまでねことばがしっかり届いているのを体感出来るんですね。ところで、こんなにも話し手にとっても聞き手にとっても居心地の良い音響状態になっているのは、何故でしょうか。プロの音響調整係が響き具合の環境を絶妙に調整していてくれたからですね。誰にとっても居心地の良い音響空間は、偶然成立したものではありません。ちゃんとそうなるように沢山のつまみで調整している職人のお陰なんです。

地球の究極のエンジニア

 ところで、この地球環境は生命体にとって、実に居心地の良い環境ですね。宇宙をあっちこっち探したってこの地球ほど命あるものにとって都合良くできている環境はありません。どうして地球だけがこんなにも生きて行くのに、丁度良い環境になってるんでしょう。調整した方がいるからです。誰ですか。神です。
 この世界をあなたが生きて行くのに都合良く、アジャストメントしている、究極のエンジニアがおられるのです。この方こそ、あなたの命のルーツである創造主なのです。今日は、この創造主について語られたイエス・キリストのことばを考えましょう。
 イエス・キリストはこう語られました。
 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

第一優先は神の義

 ここでキリストは三つのことを語っていらっしゃいます。第一に人間が最優先で求めるべきもの、それは神の義であるって言うんですね。義って言うのは神との正しい関係のことです。これをまず何よりも先に求めなさいっておっしゃるんですね。

知恵がない人に知恵を下さる神

 先月、娘の高校受験がありました。試験の前日、彼女は「聖書から何か励まして欲しい」という風に言うて来たんです。それで私はヤコブの手紙という箇所を読んであげました。そこにこう書いてあるんです。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は誰にでも惜しげなくとがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」すると娘は言いました。「良かった。だって私知恵ないもん。知恵がない人には神が知恵を下さるなんて、よかったー。知恵のある人ってかわいそうやなあ。だって神さまからの知恵はもらいに行かないんだから。」
 その通りです。人間って何を求めるでしょう。自分に一番必要なのに自分に一番欠けているものを求めるのではありませんか。自分の中にに十分有り余っているものは求めないと思います。

神の義を求めよ

 ところでキリストはまず第一に、「神の義を求めよ」とおっしゃったのです。それは人間が一番必要とし、しかも人間に一番欠けていることが神との正しい関係であるからです。今、すべての人は神さまとの正しい関係にはありません。多くの人は神から離れ、神さまを無視し、神さまなんかいないかのように生きています。この神に背中を向けて生きていることを罪と言うのです。この罪の究極の結末は神のない世界への突入です。この神さまの恵みを全く見出せない世界のことを地獄というのです。今、人間はこの永遠の地獄に向かって、突き進んでいるのです。これほど不幸なことはありません。家や財産はなくしてもまた取り戻せます。しかし、永遠のいのちを失ったら取り戻すことは出来ません。そこでキリストは神の義を求めよとすべての人におっしゃったんです。何故でしょうか。求めるものには無条件で与えて下さるからです。人は神に対して、正しくあり得ないものです。そこでキリストの正しさ、キリストの完全さ、キリストの聖さをただで与えて下さるというのです。キリストを自分の救い主として信じる人には誰にでも与えて下さるんですね。

神の国を求めよ

 第二に、神の国を求めよ。ということです。この国ということばには、支配という意味があるんですね。神の国とは、神の支配のことです。キリストによって神との正しい関係に入った人は、神の全知全能の支配の中に自分を置くことが出来るんです。そしてこれは本当に楽なことです。

決断の回避

 先日あるクリスチャンドクターの書いたエッセイを読みました。その中で強迫神経症について書かれてあったのです。一つのことを止められなくなる心の病気ですね。手洗いや鍵の開け閉めなど、些細なことに気をとられて何十回も確認せずにはおれなくなるという状態です。当然日常生活に支障を来すわけですね。このドクターによると脅迫神経症の方々に共通しているのは、決断の回避だと言うんです。「この位手を洗えば大丈夫だろう。ここで止めておこう。」という決断を避けて長時間洗ってしまうのです。
 ところで、私たちは何かを終えた後でそこから離れることが出来るのは、大丈夫だろうと決めて後は何かに委ねているからではないでしょうか。この何かというのはある人にとっては運命であり、ある人にとっては神さまであったりします。

100パーセント大丈夫なことなんてない

 例えば、飛行機に乗りますね。まず大丈夫だろうと思って乗りますが、世の中に100パーセント大丈夫なことなんてないんですね。それなのに大丈夫だろうと思っているのは、何かに委ねてるからです。この委ねる相手がもし全知全能の神で、しかも私たちをこよなく愛しておられる方であると、信じることができるならば、私たちは決断に勇気が与えられるのではありませんか。何かを決めると、必ずプラスとマイナスが出てくるものです。選んだ後でマイナスが出てきたとしても、それでも大丈夫だと言う根拠は、このマイナスをプラスに変えて下さる方の支配下に生きていると信じれる人だけです。神の支配に委ねる人生を求めるというのは、決断出来る人に変えられていく第一歩なんですね。

文字通り天国を求めよ

 第三に、文字通り神の国を天国として求める人生の勧めなんですね。キリストを救い主にした人の結末は、どう転んでも最後は天国です。クリスチャンはたとえ死んでも究極の幸せの待つ天国です。そして、死ぬ前に天国に行く可能性までもが与えられているんです。それは、キリストの再臨という事件なんです。イエス・キリストは十字架の死後三日目に復活し、天国に帰られましたが、ある日突然天から空中にまで降りてこられます。その時、すでに死んでいるクリスチャンは二度と死なない体によみがえらされて、天へ引き上げられていくんです。

お墓っておじいちゃんを植えた所

 アメリカのある少年の話です。彼は小学校で植物について習いました。球根を植えるとやがて芽が地面を突き破りそれが草木になるのを「とてもおもしろいなあ」と思ったのです。それからしばらくしたとき、彼のおじいちゃんが亡くなってしまったんですね。葬儀では牧師が出てきて、復活のメッセージを語り、やがて棺は地下に埋められたのです。それから二、三日した後で、少年は車で墓地の近くを通りました。その時、運転していたお父さんにこう言ったそうです。「あのお墓っておじいちゃんを植えた所でしょう。おじいちゃんはやがて新しい体で地面からよみがえるんだから。」その通り、卑しい物で蒔かれ栄光の姿に変えられるんです。どうぞ、あなたもまず第一にキリストを信じ受け入れて神さまとの正しい関係に入って下さい。心からお勧めしたいと思います。


工藤篤子:空
新約聖書 マタイの福音書6:33
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。