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Bible & Gospel

No.518 2010年02月28日 「幸いなるかな柔和なる人」

おはようございます。高原剛一郎です!

 先日、キリスト教書籍の専門店に参りました。するとそこへ初老の男性が入って来て、店員さんにこうおっしゃるんですね。「山上の垂訓売って下さい。」びっくりしましたね。それで店員さんが「新約聖書を買って下さい。そこに収録されていますから」というんです。ところが彼は「聖書は入りません。山上の垂訓が欲しい。」って言うんです。「ですからそれは聖書の中に」って説明されるんですが、私はやきもきしながら聞いてたんですけど、我慢できなくなりましてね。山上の垂訓のページを開いた聖書を持って行ったんです。そして、「ここに書いてあるんですよ。」という風に言いました。するとその方は「ほー」と関心しながらメモに書き写すんですね。

聖書のことばは文脈の中で理解する

 そして、書くだけ書いたら、聖書を買わずに行ってしまったんですね。「なんじゃこれは!買えばいいのになあ。」と思いながら、どうして山上の垂訓は好きだけど、聖書全体は拒否するんだろうと考えたんです。恐らくこの方は聖書を格言、名言、知恵のことば集のようにお考えになっているに違いないと思うんですね。確かに聖書の中には、きらりと光る名言が随所にあります。しかし、そのことばが本当に威力を発揮するためには、そこだけ取り出してもだめなんですね。福音という文脈の中で理解して、初めて聖書のことばは本領を発揮するのです。そこで今日、山上の垂訓からイエス・キリストのことばを考えたいと思うんです。

柔和ってどんな意味

 ある時キリストは山の上、山上にお座りになり、弟子たちに向かってこう話されたのです。「柔和なものは幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」ところで、柔和ってどんな意味でしょう。国語辞典を引くと優しくゆったりしている様子とあります。ところが英和辞典で日本語の柔和にあたるミークということばを引くと、1に挑発されても耐える。2に意気地なし。3に優しい、親切。とありました。

ギリシャ語で柔和とはしなやかに生きること

 つまりただ良い意味だけでなく、何となくひ弱な感じのことばなんですね。しかし、新約聖書はギリシャ語で書かれてるんです。そして、ギリシャ語で柔和とは、プラウスということばなのです。これはへりくだった態度から生まれるしなやかさのことなのです。持って生まれた柔和な性格のことを行っているんではなく、神に対して取る態度のこと、キリストに対して取る態度のことを言っているんです。では、何故キリストに対してへりくだるならば、しなやかな態度で人生を生きることが出来るんでしょう。

罪赦されるのでしなやかに生きることが出来る

 第一に、キリストはあなたの罪を無条件で、完全に赦して下さる方であるので、あなたは神に対して自己弁護したり、逃げ回ったり、強情はったりする必要がいっさいなくなるからです。
 私たちは赦してくれるかどうか分からない相手と交渉するときには、少しでもつけいる隙を見せまいとして、がんばってしまいますね。そして、それが返って関係をこじらせることにもなってしまうのです。しかし、必ず赦して下さる相手、いやすでにあなたを赦して、受け入れ、和解を望んですらおられる相手の前に立つ時には、何にも身構えたりする必要がありません。

神の愛に応えた人は柔和に至る

 人は神に対して反逆の人生を送っていますから、誰もが悔い改めなければならないのです。しかし、どうして人は悔い改めることが出来るんでしょう。神が赦して下さるからこそ、悔い改めることが出来るんです。赦しのないところには、悔い改めは生まれてきません。神はあなたに対して、罪の赦しと永遠のいのちをすでにキリストにおいて準備し終わってるのです。あなたが神の元に帰って来るのを、今か今かと待っておられるのです。この神さまの愛に対して応えた人には神への恐怖がなくなります。だからこそ、柔和に至るって言うんですね。

最善を信じているのでしなやかに生きることが出来る

 第二に、神の主権は常に働いてることを認めるので、人生の途中で悲しむべきこととぶつかったとしても、最後は最善に至ると信じているので、しなやかに生きることが出来るんです。
 人生は思うようにいきませんね。思うように行くときもあるでしょう。しかし、何もかも思うようには行きません。思いがけないタイミングで怪我をしたり、裏切られたり、傷つけられたり、大きな試練にあったりします。しかし、今、目の前に展開していることは、悲しい現状であったとしても、それが将来良きことに役立ち、良き実りに至ると信じることが出来るならば、落ち込んでも落ち込み過ぎず、嘆いても身を滅ぼすことはなく、呻いても投げやりな人にはならないのです。

最後の結末が究極の幸せ

 キリストを信じる者に約束された人生は、最後は永遠の喜びに至ると言うことです。たとえ死んでも、天国です。たとえ愛する人と死別しても、再会があります。病いが癒されなくても最後は復活の体です。復活の体を持ったら、病気とは全く無関係になります。最後の結末が究極の幸せであり、しかもそれは確実で、絶対に覆されることはないと知っているので、柔和であり続ける、柔和な態度を敢えて選び取ることが出来ると言うんですね。

神の子とされたのでしなやかに生きることが出来る

 第三に、キリストによって神の子とせられた人は、全知全能の神の前に大胆に近づいて、祈ることが出来るのです。人と比べて自分の小ささを思い知らされるときには、惨めな気持ちが致しますね。しかし、神の前に自分の小ささを示されているときには、勇気が湧いてきます。なぜなら、「だからこそキリストが助けて下さるからだ」と分かるからです。何でも出来る神の前で、小さい自分をお見せすることは、大きいキリストの助けと恵みを頂いていくと言うことなのです。

偉大なアレキサンダー大王

 ある時、一人の男がギリシャの英雄アレキサンダー大王の前に行きました。彼は王様の熱烈なる崇拝者であったのです。ところで彼は実に厚かましいお願いを王様にしたのです。娘の花嫁料として莫大なる金額を与えて欲しいと頼むんですね。王は快くそれを受け入れ、「欲しいだけの金額を財務官に言えば良い、という風に答えたのです。そこで花嫁の父は、財務官に向かって要求したのですが、その額が余りにも現実離れしていた額であるので、断られてしまうんですね。そして、これほどの額は王の直接命令なしには出せないという風に言われてしまうのです。そして、この財務官は王のところに行き、こんなべらぼうな額を払うべきではありませんよ。これのほんの一部でも十分過ぎるほどですと進言したのです。
 しかし、王は言いました。「そうではない。あの男の要求通りにせよ。」「実のところ、私はあの男のことが気に入ってるんだ。なぜなら、彼は私を崇拝している。彼は心の底から、私を偉大な王として扱っている。彼の敬意の深さがあの金額の大きさとなって、表れているのだ。」

神の前に出る資格はキリストを受け入れること

 あなたは小さいですか。それならばキリストによって神の前に行き、大きく願おうではありませんか。なぜならこの神は全知全能にして、祝福に満ち満ちたお方なのですから。この方の前に出る資格は一つだけです。何もない反逆者であったこの私のために身代わりになって死んで三日目によみがえったイエス・キリストを自分の救い主として受け入れるということ、これだけです。このキリストを受け入れるものは、だれでも例外なしに、神に受け入れられるのです。どうぞ、イエス・キリストを受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。


ウイングス:カルバリの十字架で
新約聖書 マタイの福音書5:5
 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。