No.514 2010年01月31日 「死を飲み込む命の原理」
おはようございます。高原剛一郎です!
さて毎年1月になると成人の日がやってきますね。大人の仲間入りをする節目の祝いです。昔は元服という儀式をもって大人と認めました。特に侍の社会では元服すると、3つのことをしたそうです。
元服をもって髪型を変える
第一に髪型を変えるんですね。月代という前髪を切り落とすんです。この儀式は首を落とすという意味が秘められているそうです。つまり、子供時代の私は死んだんだ。子供の私の首は落とされた。過去の私はすでに死んだものとなったと言うことですね。
元服をもって名前を変える
第二に、幼名から大人の名前に変えるんです。厳密には実名に戻すんですね。幼い頃の名を持っていたあの少年は、すでに死に、元服を果たして今ここに立っている自分は別人であるっていう式なんです。本来の自分に回復させられた私は今や新しい人間であるというわけなんですね。
元服をもって刀をさす
第三に、刀をさすようになるんです。勿論本物の刀ですね。ところでこの刀は何のために元服をもってさすようになるんでしょう。刀を常に持ち歩く理由の第一は、人をあやめるためのものではないんです。それは名誉のためにいつでも命をかけるという意思表示なんですね。大人になったからには、主君と自分の家の名誉を汚させないし、また自ら名を汚すようなことがあれば、自分の刀で自分を始末するためにさしていたものであるって言うんです。侍の社会の中では、命よりも名誉の方が大きな物だったんですね。そしてこの自分に対するイメージが、明治維新で大きなエネルギーになっていたということは言うまでもありません。
聖書の語る人間観
私はこの元服の意味を教えていただいたとき、聖書の語る人間観に少しだけ近いものがあるなと感じました。というのは、聖書によると人間こそは、神の名誉、神の栄誉を現すために、神の本質に似せて造られた最高傑作であるからです。神さまはこの天地万物をお造りになりました。自然界の様々な命あるものを創造されたんです。しかし、神のお造りになった作品の中で、神の本質に似せて造られたのは、人間だけなんですね。人間は、全知全能の神に似せられ、またいよいよ似ていくように造られたということほど、人間存在の尊厳を際だたせているものはないと思います。
神の最高傑作人間の惨めな姿
あなたは、神の賢さ、神のやさしさ、神の正しさ、神の清さ、神の美しさを反映するという目的を持って作られたのですよって、聖書は語るんですね。ところが、現実の世の中を見てみるとこれが神の最高傑作のすることだろうかというような、ひどい事件が横行してるんですね。今年の成人式も全国各地で荒れましたね。また、犯罪や憎しみや惨たらしい事件に盆も正月もありません。うんざりするような事件がこれでもか、これでもかと起こるんです。人間が神による最高傑作であるなら、どうして人間はこんなに酷いことをしでかしているんでしょう。
火事になった豪邸「雄山荘」
先日、新聞の投書欄にこんなことが書いてありました。実家のある小田原へ里帰りしたとき、外国のお客さんを一緒に連れて行ったというんですね。というのは、このお客様は、太宰治の大ファンだったんです。そして小田原にはこの太宰治の代表作「斜陽」のモデルとなった太田静子が住んでいた雄山荘という別荘があるんです。ところが現場へ行ってびっくり仰天したんですね。なんと建物は火事のために、見るも無惨な姿に変わり果てていたからです。どうも不審火のために、燃えてしまったんですね。この雄山荘は、初めから焦げ臭い焼け跡の姿をしていたのではありません。初めは昭和初期の実業家が贅をこらして建てた立派な立派な豪邸別荘だったんです。しかし、その後で、何者かが火を放ったがために、惨めな残骸になってしまったのです。
人間を復元、回復させ、新しくする救い主イエス
人間も同じです。人は初めから罪人として造られていたのではありません。初めは神によって最高傑作として造られていたのです。しかし、造られた後で、火事よりも恐ろしい罪を抱え込んだがために、見るも無惨な罪人に成りはててしまったのだというんです。では火事よりも恐ろしい、姦淫よりも恐ろしい罪とは、具体的にどのような罪のことを言うんでしょう。それは、自分の造り主を無視し、反逆し、神から離れて自分勝手に生きるということを聖書は罪って言うんです。それは自分自身を神として拝みながら生きることです。或いは神ならぬものを神として依存して生きる生き方なのです。この罪の結果、滅びに至ることが定まってしまったその人間を救い出し、そして、人間を復元し、回復させ、新しくするために来られた救い主がイエス・キリストなのです。
あなたに新しいいのちを授ける十字架
キリストは、まずあなたの罪をすべて取り除き、あなたに新しいいのちを授けるために、十字架に架かって下さいました。そして、あなたの罪の責任を全部代わりに引き受けて下さったんです。あなたが過去にどんな罪を犯したとしても、神からその責任があなたに問われないようにするために、身代わりになって下さったのです。
聖書にこう書いてあります。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
キリストは、あなたを罪と死という惨めな結末から自由にするために、来て下さったのです。
インドのサティーという習慣
昔、インドでサティーという習慣がありました。これは夫が亡くなった後、残された奥さんも火あぶりにされて殺されてしまうという習慣なんです。昔インドでは女の子は、10才や12才で、20才、30才の年齢差のある男性を結婚させられていましたから、当然先に亡くなるのはご主人の方です。後に残るのは圧倒的に妻たちでした。そして、彼女たちは、焼き殺されていくのです。これに抗うことは出来ませんでした。それは長ーい間、続いた伝統であったからです。
圧倒的な力の原理
ところがやがてイギリスが乗り込んで来たんですね。そしてインドを植民地にしたのです。しかし、昔から続いてきたヒンズー教の慣習はそう簡単になくならなかったんです。ヒンズーの司祭たちがあくまでも「これは今までずっと続いてきた、これは伝統であり、慣習であり、そして慣習であるが故にそれは存続させるべきである」という風に強く主張したからです。それに対して、イギリスの海軍大将チャールズ・ネイピアという将軍はこう答えたと言われています。「そんなに慣習を尊重するというなら、我が国にも慣習があると知っておいた方が良い。我が国で、は男が女を生きたまま火あぶりにしたら、その男の子は絞首刑にする。さあ、互いの国の慣習に従って行動しようじゃないか。」圧倒的な力を持つ国の原理が、支配される国の原理を飲み込んだ形で、無効にしたのです。
罪と死の原理を飲み込むいのちの原理
罪と死の原理はすべての人間に働いています。しかしそれを飲み込むいのちの原理は、キリストを受け入れる人間により強く働くのです。どうぞ、あなたもキリストを受け入れ、罪の赦しと永遠のいのちを得て下さい。心からお勧めしたいと思います。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。