世界中どこでも、いつでもラジオ関西「聖書と福音」の聖書メッセージが聴ける(Web Radio) ウェビオ

Bible & Gospel

No.505 2009年11月29日 「人生を変えるキリストとの出会い」

おはようございます。高原剛一郎です!

 鴻上尚史さんが主宰する劇団に第三舞台というのがあります。彼は何故、自分の劇団を第三舞台という名前にしたんでしょうか。彼によると第一舞台というのは、ステージのことです。第二舞台というのは、客席のことです。じゃあ、第三舞台とは何でしょう。それは第一舞台と第二舞台が感動で溶け合ったときに現れる幻の舞台のことだそうです。役者と観客が一つの芝居の中で、出会いを経験するときにだけ現れる、幻の舞台なんですね。この出会いを経験すると役者も観客も一皮むけるそうです。

人生は出会いで変わり出会いで決まる

 普通の人は舞台には立ちませんが、でも、人生の中で自分を変えてしまう出会いを経験することはあると思うんです。人生は出会いで変わり、出会いで決まるんですね。その実例を聖書の中に見出すことが出来ます。

復活したキリストと対面するペテロ

 ヨハネの福音書の最後に、復活したキリストと対面する一番弟子ペテロの記事が出てきます。そこには、こう書いてあるのです。  イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」  このペテロとキリストの出会いを、三つの観点で考えたいと思います。

復活したキリストとの出会い

 第一に、この出会いは十字架に架かって死を経験した後、復活したキリストとの出会いです。復活によって人類を悩ませる罪と死の問題は、すでに解決済みなんだということを、身をもって示した方との出会いなんです。

「死の棘」という小説

 カトリック作家の島尾敏雄さんという方の作品に、「死の棘」という小説があるんですね。随分古い小説ですが、まあ、あるところに平々凡々な家庭があるんです。ところが夫の浮気によって、家の中がめちゃくちゃになっていくというストーリーです。夫の裏切りによって妻は、精神を病むようになるのですが、発作が起こるとまるで刑事のように夫を尋問し始めるんですね。「あなたはあの女と池袋に行ったのか。」そしていつも最後は私はあなたに対する愛を失ったから、どうか死なせて欲しいって言うんです。夫は苛立っていや、死ぬなら俺が死ぬ。すると妻は子供に向かって、「お母さんは死ぬけど、お父さんは持って良いお母さんをもらってくれるから、おまえは生きなさい。」すると長男が「いや、僕ももういろいろ見てきてほとほと嫌になったから、僕も死ぬ。下の娘は「死にたくない。死にたくない。」その内疲れ果てた母親が涙をためながら、大きな欠伸をするんですね。すると無邪気な子供たちは、家庭の事情が終わった。お母さんが欠伸をした。万歳、万歳って言うんです。しかし、夫は次の発作を恐れて気が休まりません。生き地獄のような状態が延々と続くんですね。

死で罪を終わらせても救いはない

 平凡な家庭を壊したのは夫の罪でしたが、この果てしない不毛の会話は、「当事者たちが死なない限り、終わりが来ないでしょ」って作家は言いたいんです。即ち罪を終わらせるのは死だけですって言うんです。罪は死によって終わらせることが出来る。でもそこには、救いがないんですね。しかし、キリストは私たちの罪を背負って、十字架の上で死んで下さったのです。ご自分の死によって、私たちの罪を終わらせて下さったのです。しかも死で終わるだけではなく、三日後によみかえって下さったのです。この復活したキリストを自分の目で見、出会い、語られたのがペテロなんですね。これによって、罪と死の終わりを確信することが出来るんです。

愛して下さる存在との出会い

 第二に、この出会いは自分の醜さを完全に知りながら、しかも軽蔑することなく、愛して下さる存在との出会いなんです。私たちはこの出会いによって、本当に自分から解放されるんですね。

責められず軽蔑されずに愛が継続する解放感

 私の妻は2ヶ月程前に亡くなりました。亡くなる数週間前、私は彼女に隠していたことを告白したのです。実はある人を赦してなかったんです。私は彼女に対して正直でありたいと願いながら、中々それを言い出すことが出来ずにいました。どうして言えなかったか、それは、もしこの惨めなことを知られてしまったら、私のことを軽蔑するんじゃないか、私に対してがっかりするんじゃないかと言うことを恐れていたのです。しかし、思い切って告白しました。すると、彼女はこう言ったんです。「知ってたよ。でもいつか神さまが解決して下さるとも信じて、ずっと祈ってたよ。」「そうか、知ってたんか。」「うん。でも思い切ってそれが言えるってあなたは勇気があるわね。」そういわれたときの解放感は本当に何とも言えないものですね。自分のありのままを全部見せても、責められず、軽蔑されず、愛が継続すると分かると、本当に勇気が湧いてきます。

愛を確かめたくなるのが愛の本質

 そして、キリストはもっともっともっと、そういう方なんです。あなたの人生の出来不出来によって、あなたを愛したり、愛さなくなったりする方ではありません。どんなに醜いことをしでかす人であったとしても、キリストはあなたをお見捨てにならないのです。何故、そういうことが出来るんでしょう。実は、このペテロという人は、十字架を目の前にしたキリストを三度もあんな人知らないと言って、裏切った人なんです。そのペテロに対して、三度あなたはわたしを愛しますか。と尋ねて下さった。それは何故でしょうか。それはキリストがペテロを愛しているからです。なぜなら、自分が愛してる人の愛を確かめたくなるのが、愛の本質であるからです。  自分にとってどうでもいい人は、その人が自分を愛しているかどうかなどと言うことも、気にしないんですよね。

使命を授ける方との出会い

 第三に、この出会いは、自分に使命を授ける方との出会いなんです。  キリストは大失敗をしたペテロに、こう言いました。「わたしの羊を飼いなさい。」あなたの造り主はあなたに使命を授けて、あなたをお造りになりました。人はその使命に生きるとき、生まれ来て良かったって人生に充足感を覚えて生きることが出来るんですね。

立派な仕事

 この使命って言うのは、何も目立った仕事をすることや、偉大な賞をもらうことばかりではありません。病に倒れ、現役を退き、入院生活を続けるような中で、その状況の中でどう生きるか、この境遇に対してどう向き合うか、与えられた残りの人生の中で、人生の与え主に対して、どのような態度で生きて行くのか。これも立派な仕事です。なぜなら、仕事とは、第一に人にどう思われるかよりも、神にどう答えるのかによって意味づけをしていくものであるからです。

キリストとの生ける出会いのはじまり

 神に忠実に生きる人生は、他の人を励まし、良き感化を与えていくことができます。キリストは、あなたに罪の赦しと永遠のいのちを与え、また、変わらない愛を与え、また、あなただけの使命を与えて下さる方です。どうぞ、あなたもこのキリストを自分の救い主として信じ受け入れて下さい。そこにキリストとの生ける出会いがはじまるからです。心からお勧めしたいと思います。



吉村美穂:いつくしみ深き
新約聖書 ヨハネの福音書21:17
 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」