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Bible & Gospel

No.504 2009年11月22日 「弱さを誇る」

おはようございます。尼川匡志です!

 アメリカに名前をフェイスというセラピードッグがいるそうです。この犬は外見的に大きな特徴があります。それはなんと後ろ足2本で立って歩くんですね。勿論それにはわけがあります。この犬は生まれた時から前足の2本の内1本が無く、そしてもう1本は全く動かなかったんですね。大きなハンディーを負って生まれてきました。一人の少年がこの子犬を見て可哀そうに思い家に連れて帰って、医者に見せたんです。先生が言うには「この犬はとても生きる事ができません、安楽死させるのが一番です」と言われたんです。

現実離れした方法が一つあった

 なんとか助けられないかと食い下がりますが、どうにも方法が見つかりません。でもお医者さんがこんな事を言われたんです。「現実離れしているかもしれませんが一つ方法があります」すがる様な思いで聞きますと、こう続けました。「元気な後ろ足だけで歩けるリハビリができるなら、この犬にも生きるチャンスがあります」。一家はその言葉に賭けました。その日からこの家族の愛情あふれるリハビリが始まったんです。そしてこの犬には信仰や信頼を意味する「フェイス」という名前がつけられました。

フェイスの2足歩行「奇跡のニュース」

 数ヶ月たったある雪の日、庭で遊ぶ子供たちをジッと見ていたフェイスは、一緒に遊びたい一心から、遂に立ち上がったんです。そして小さく一歩前に踏み出しました。この日を境にフェイスは2足歩行が上達し、地元ですっかり有名な犬になったんです。そしてこれは「奇跡のニュース」として全米に配信され、各地で大反響を呼ぶことになりました。

ある年配の女性の自殺を思い留まらせたフェイス

 一人の年配の女性がこのニュースを見ていました。彼女は病気が重くなって歩けなくなっていたんです。絶望した彼女は、ある日自殺を決意し、街に拳銃を買いに出かけました。そして公園に差し掛かった時、なんと目の前にフェイスがいるではありませんか。ちょうどTV出演のためにこの街に来ていたのです。彼女は近づきフェイスの体にそっと触れ撫でました。彼女の心は溢れだす涙と共に、みるみる癒されていったんです。彼女にはもう、ピストルは必要なくなりました。フェイスの「弱さ」を持ったまま、それでも懸命に生きる姿は彼女の心に生きる勇気と力を与えたのです。フェイスは今、セラピードッグとして全米のお年寄りや病気の子供達、そして心の病んだ人たちの元に、慰めと励ましを運んでいるそうです。

どうして弱さが存在するのでしょう

 さて、もし神さまがおられるなら、どうしてこの世界に、様々な「弱さ」があるのでしょうか。「弱さ」が好きだという人は誰もいません。そこには悩みがあり、苦しみが伴うからです。では、もしこの世界から「弱さ」がなくなれば、私たちの世界は苦しみのない平和なものとなるでしょうか?私はそうは思いません。強い者ばかりで世界が出来ていたら、そこには競争や妬み、また敵対心が生まれるように思うからです。でも弱さのある場所には、いたわりや愛、優しさが現れます。フェイスを育んだ家族のようにです。彼らは言いました「フェイスが来るまではバラバラでした。でもフェイスが来てから家族が一つなったんです。」

弱さは人と人との絆を深めます

 「弱さ」は時に人と人との絆を深めます。「弱さ」はただ嫌なものではなく、人生の中で大切な意味を持っているんです。  新約聖書の多くの部分を書いたパウロはこのように語っています。

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

パウロは弱さを誇ると言いました

 パウロは自分の弱さを誇ると言いました。私たちには不思議な言葉です。なぜなら、私たちは自分の「弱さ」をとても好きになれません。この世界では「弱さ」は欠点です。パウロは何故「弱さ」を「誇り」と言えたのでしょうか。
 まず、「弱さ」は私たちに命を与えて下さった神さまに与えられているという事です。すべての人間は何らかの「弱さ」を持っています。完璧な人間など一人もいません。

吉野弘さんという方の詩

 吉野弘さんという方の詩の中にこんな1節があります。
 『生命は自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい。
 花もめしべとおしべが揃っているだけでは不充分で、
 虫や風が訪れて、めしべとおしべを仲立ちする。
 生命はその中に欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ。』

 私たちは自分一人では生きていけないのです。誰もが他者の助けを必要とします。そしてその助けが必要なところに人と人との関係や絆が生まれるのです。でもそれ以上に人間に必要不可欠なのものが、神さまの支えと助けなんです。私たち人間が生きるためになくてはならないもの、空気・水・引力・太陽これらはすべて一方的に神さまによって与えられているものです。これらの一つでも無ければ、私たちはたちまち消滅します。私たちは神さまの支えが無ければ生きていけない存在なんです。

弱さはジグソーパズルのへこんだ部分のよう

 そしてその神さまが私たちをお造りになる時、一人一人に「足りない部分」を与えられました。ちょうどジグソーパズルの1つのピースのへこんだ部分のようにです。それが私たちの「弱さ」です。「弱さ」はただ不足している部分ではありません。互いにつながる為にこのへこんだ部分んも必要なのです。そして神さまはそこを満たそうとしてくださるんですね。「弱さ」は人が神さまの恵みを受け取る場所であり、人と人との絆や関係を深める為に与えられているものです。「弱さ」は人生のマイナスではなく、かえってつながる為になくてはならない部分として神さまから与えられたものなのですね。

なぜ私たちはその弱さを嫌うのでしょうか

 では、なぜ私たちはその「弱さ」を嫌うのでしょうか。これは私たちの中にある「罪」の性質の結果なんです。聖書の語る「罪」とは、悪い行いの事だけではなく、神さまの事を分からなくする原因の事を言います。つまり私たちは罪の性質の結果、自分が神さまに愛されて造られた、大切な存在である事がわからなくなっているのです。そしてそれは自分以外の他の人の大切さも見失わせます。ですから、人を表面的な能力や財産等で評価するようになってしまうんです。そうなれば「弱さ」は単に劣った所になってしまいます。だから自分の「弱さ」を恥じ、隠します。他人の「弱さ」を馬鹿にし、攻撃するようになるんです。

人間を不幸にしているのは弱さではありません

 人間を不幸にしているのは、私たちが持つ弱さではありません。神さまを分からなくする罪の存在なんです。この罪を取り除くためにこの世界に来て下さったのがイエスさまです。イエスさまは私たちの「弱さ」をなくすためではなく、私たちの罪の元凶である罪を滅ぼすために十字架にかかって下さったのです。もう一度言います「弱さ」が不幸の原因ではありません。私たちが持っている罪が私たちを苦しみに追い込んでいくのです。そして私たちが罪から解放され、神さまの与えてくださる恵みに目が開かれた時、「弱さ」はただの欠点ではなく、大切なものに姿を変えていくのです。パウロが「弱さ」を「誇り」と言えたのは、パウロが強靱な人間だったからではなく、この事の結果なのです。あなたはご自分の「弱さ」を恥ずかしいと思っていないでしょうか。イエスさまに出会ってください。あなたの「弱さ」も必ず、その意味を変えるはずですから。



オリーブ:あなたが弱い時こそ
新約聖書 第2コリント人への手紙12:9
 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。