No.501 2009年11月01日 「福音理解の3つのポイント」
おはようございます、高原剛一郎です
わたしは毎日健康のために冷やした野菜スープを飲んでます。先日もコップに半分ほど入った野菜スープを一気飲みであおりました。ところが中に入ってたのはレモンの絞り汁だったんです。口の中いっぱいにレモン汁が満タンの状態ですその酸っぱいこと酸っぱいこと、という話を今聞いているあなたの口の中は唾液でいっぱいになっていませんか?あなたはレモンを口に入れたわけではないのにつばが沸いてきましたね。なぜですか。私のことばが心に入ったからです。
力がある聖書のことば
ことばってすごい力がありますね。事と次第によっては肉体の反応にまで影響を与えてしまうのですから。私は今日聖書のことばをお届けしたいと思います。聖書が一番語りたいメッセージ、福音をずばり語った箇所を紹介いたしましょう。
「罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物はわたしたちの主キリストイエスにある永遠の命です。」
この御言葉に三つの専門用語が出てまいります。神と罪と救いの三つです。
神
第一に神とは誰でしょう?あなたをお創りになった作者のことを聖書は神と呼ぶんですね。人間が作った神々ではありません。人間をお創りになった作者のことです。
私は数ヶ月前家内を連れてある総合病院へ行きました。体のあちこちに病状が表れていた家内を何とか診察してもらおうとしたんです。そうして一つわかったことは、現代の病院ではそれぞれ専門分野がきっちり分かれていて、いくらドクターとはいえ専門外の治療、診断については正確なことは言えないということです。ですから体のあちこちに病気を持っていた場合は、あっちに診察こっちに診察と、ぐるぐるぐるぐる回ることになってしまうんですね。どうして専門分野ごとにドクターが分かれているんでしょう。それは人間の体があまりにも複雑にできているため一人ですべてのジャンルをカバーできないからです。一人ですべての専門分野を完全マスターしているドクターは一人もいません。それは人間の能力には無理なことなのです。だから消化器は消化器、循環器は循環器、泌尿器は泌尿器と細分化されているんですね。
人間の作った神々には限界がある
ところで日本には実にたくさんの神々がいますね。一説によると26万6千もの神々があるそうです。どうしてそんなにたくさんあるのでしょう。各種専門分野に分かれているからです。受験については受験の神さん。できものについてはできものの神さん。商売繁盛については商売繁盛の神さん。それぞれ持ち場があるんですね。どうして専門分野に分かれているんですか人間の作った神々は所詮限界があるからです。もっと言えば、お一人で何でもできる本物の神を知らないので困ったことが起こるたんびに新しい神々をこしらえてきたんですね。しかしまことの神は全知全能の神、何でも知っていて何でもできる方です。そしてこの方があなたをお創りになったのです。神とはあなたの命のルーツあなたの作者なる方、魂の親といってよいでしょう。
罪
第二に罪ということばです。聖書によるとすべての人は神に対して罪びとだと言っています。この罪ということばの意味は的外れという意味なんですね。本来の意味目的を失ったものを罪びとと言うんです。いまから二ヶ月ほど前のことです。ある方が私たちの為にとってもおいしいかぼちゃスープを作って持ってきてくださったんです。みんなお代わりをして、あっという間に最後の一杯になったのです。いったい最後誰のものになるのか?そのとき結論が出ませんでした。それで器に入れて冷蔵庫に入れたんです。それから二ヶ月たちました冷蔵庫から異様なにおいがするので私はよく中を調べてみました。すると中からあのかぼちゃスープがおぞましい姿になりはてて発見されたんです。表面にはくもの糸のような綿毛が繁殖しています。そしてその周りは緑色のカビが生えとるんですね。何よりとってもすっぱい匂いがするんです。腐ってるんですね。これはもう捨てるしかありませんでした。本来健康を支えるエネルギー源として作られたスープが健康を損ねるものに変わってしまっていたのです。
罪とは本来の目的を逸脱した状態
この本来の目的をはなせなくなっている状態、本来の目的を逸脱した状態を的外れ、すなわち罪というんです。神は人間をお創りになりました。神様の栄光を表すためです。ところが人間は神から離れ反逆し本来の目的から逸脱し、神の前に腐ったものと成り果ててしまったのです。神のもとにそのままでは受け入れられない醜い罪、おぞましい考えを発散させながら生きるものに変わってしまったというんです。どんなに寛容な人も腐った食べ物は捨てますね。同じように聖い聖い聖い神は罪あるものをそのままでは受け入れることができません。人は罪のゆえに一度死にそして、死んだあとには裁きを受けることが定まっているのです。ところが神はこの腐りはてた人間を惜しんだのです。なぜならもともと愛の対象として人間をお創りになったからです。それで神様は罪びとを救うことにしました。いったいどのようにしてでしょう。イエス・キリストをあなたの身代わりに裁くことによってです。神はあなたを愛するあまり十字架の上のイエス・キリストにあなたの罪を背負わせてまるで最悪の罪びとでもあるかのように徹底的に裁いてくださったんです。私たちは皆このキリストの自己犠牲によって罪のさばきから救われるのです。
救い
皆さんはクオレという児童文学をご存知でしょう。三番目の救いをこの児童文学からご紹介したいのです。ふるさとイタリアに向かう船が途中で大嵐に巻き込まれてしまいますね。そしていよいよ船が沈没するとき、あと一人しか乗り込めない救命ボートに少女ジュリエッタを突き飛ばすようにして乗せる少年の話が出てきます。彼は孤児のマリオという少年です。彼はこういう風にいいます。君には君を待っている家族がいる。僕は一人ぼっちだ。だからさぁ君が乗るんだ。救命ボートに乗込めたジュリエッタを見届けながら、沈んでいく船から少年マリオは手を振り続けます。
クオレとはイタリア語で勇気とか愛という意味もある
クオレとはイタリア語で英語に訳すとハートのことなんです。ハートというのは心ですけれど勇気とか愛という意味もあるんですね。キリストはあなたを救いの中に入れるため、あの十字架の上で神からも捨てられ完全孤児となった方です。そして十字架にかかりながらあなたを待っている神のもとに帰ってほしい。あなたの本当のたましいの家族のもとに戻ってほしいと祈ってくださった方です。この方があなたの為に命まで捨ててくださった救い主です。そして同時に三日目に復活してあなたの救い主となった方です。どうぞあなたも、あなたのために死んでよみがえったイエス・キリストを救い主として信じ、それを口で告白してください。救われますどうぞキリストとの出会いがありますように心からお勧めしたいと思います。
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。