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Bible & Gospel

No.500 2009年10月25日 「悲しみを癒す逆転発想」

おはようございます、高原剛一郎です

 英語の辞典の中にユーモア辞典というのがあります。この辞書では妊娠ということばを次のように説明しています。「初孫を楽しみにしているおじいちゃん、おばあちゃんにとっては、まだかという待望。未婚のカップルにとっては、まさかという恐怖。子だくさんの夫婦にとってはまたかという戸惑いだ。」と。

事実は一つでも見方によって喜びにも恐れにもなる

 妊娠という事実は一つなんですが、それぞれの見方によって、喜びにも恐れにもなるんですね。これは人生について、すべて言えることではないかなと思います。それ自体良いことも、ひねくれた見方で眺めると、不満が残りますね。しかし、それ自体は悲しい出来事であっても、聖書の光に照らされて、見つめ返してみるならば、ただの悲しみで終わることなく、実り豊かな人生に至らせるための悲しみになるんですね。私はそれを経験しました。

悲しみのただ中で受けた深い神さまの慰め

 先日、私の家内が癌で亡くなりました。私はその悲しみをことばで表すことは出来ません。しかし、聖書の光に照らされることで、悲しみのただ中にあっても、深い神さまの慰めを受けたんです。聖書はこう語っています。
 「だれもみな、自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」
 だから悲しみは何十倍にも重くなるっていうんですよね。じゃあどうしたらいいんでしょうか。

自分のことではなく相手のことを思う

 第一に、自分自身のことではなく、相手のことを思うということです。妻が亡くなったとき、私たち家族はとても寂しい日常生活に投げ込まれてしまいました。長男は、朝が憂鬱です。なぜなら、朝は台所にいるはずの母がいないと気づく時間帯であるからです。次男は、学校で不意に思い出してしまったお母さんの思い出をこらえている内に、過呼吸になってしまったって言うんですね。娘は娘で、友達が自分の母親のことをこき下ろしているのを聞きながら、もう少しでしかり飛ばしそうになったって言うんです。そして、そんなにお母さんが嫌だって言うんだったら私にちょうだい」って言いそうになったと言ってました。  私もそうなんです。人前ではびくともしないようにしてはいます。また、どっちかというとタフな男だとは思っていました。ところが、彼女が亡くなった後に必要となる死亡診断書を初めとする重要書類が、どこへ行ったのか、紛失してしまってないんです。確かに受け取ったんですが、どこにしまったのか、まるで記憶が飛んでしまっているんですね。悲しみの余り、動揺して何をどう行動したのか、分からずにいるんです。

自分のことを考えるのを止めると安堵感まで湧いてくる

 愛する人を失うってこんなにも切なく、こんなにも辛いのか、こんなに悲しみは肉体にまでダメージを与えるのか。悲しみの持つ力の大きさに、圧倒されています。しかし、自分のことを考えるのを止めて、彼女のことを中心に考えてみたとき、事実が違った姿に見え始め、安堵感まで湧いて来たんです。一体どんな安堵感でしょう。「こんなに辛い思いを彼女はせずに済んだんだ。」という安堵感なんです。  もし、私が彼女の立場で、彼女が私の立場だったら、今頃彼女はどうしているかな、私は天国に行くから良いんですけど、残された彼女は3人の子供を抱えた未亡人として、女手一つで必死に生きていくんでしょう。その時彼女が抱える悲しみを想像すると、とても気の毒でなりません。この悲しみを彼女が背負わずに済んだんだ。彼女が背負う代わりに私たちが今、悲しみを担っているんだと思うと、これで良かったって、本当にそう思います。

自分のことを求めずキリストのことを求める

 第二に、自分自身のことばかり求めず、キリスト・イエスのことを求める動機として、悲しみを用いるっていうことなんですね。恐らく人生の目的とは、悲しみをなくすことではなく、悲しみを実りあるものにすることだと思います。悲しみを実りあるものとする最大の秘訣は、悲しみを持ってイエス・キリストに近づき、祈り、考えることです。その時、どんな分かりやすい話や、本によるよりもイエス・キリストの心がよーく分かってくると思うんですね。

救いを完成するため神はキリストを裁かれた

 ところで、悲しみっていうのは、「喪失による感情だ」と言われています。何か大事なものをなくしたときに生まれる気持ちです。失ったものが大切なものであればあるほど、その悲しみは深くて大きくなります。ですから、最大の悲しみは最愛の人を亡くしたときにやってくるのです。私は愛する人を亡くしたこの悲しみが、辛ければ辛いほど、神さまの愛が以前よりももっともっと心に迫ってくるようになりました。なぜなら、神さまもまた一度愛して止まないイエス・キリストをあの十字架の上で亡くして下さっているからです。キリストは人となった神ですから、病気になりません。死とは無関係の方です。罪のない完全な方です。その罪のない方が、十字架に架かって下さったのは、何故なんでしょう。私たち全人類の罪を身代わりに背負って神から裁かれるためだったんですね。  愛するもの、自らの手で裁くときの苦しみはどれほど大きかったことでしょうか。しかし、そんなにも悲しい苦しい思いをしてでも、私たちが死後、地獄に行かないための救いを完成するために、神はキリストを裁いて下さったんですね。その神さまの愛が、ひしひしと私の心に迫って参ります。

地上のことでなく天国のことを思う

 第三に、地上のことばかりでなく、天国のことを思うことです。天国なんてあるんでしょうか。あります。何故そういえるんでしょうか。キリストが十字架の死後、三日目に復活したからです。死んで、死後の世界を見た方が復活して、本当に天国も地獄もあるんだと証言しておられるからです。  この天国については、哲学じゃないんですね。目撃者、体験者による証言なんです。そして、もし天国があり、キリストによってそこに行けるとするならば、どうなるでしょう。  私の妻はいなくなったのではなく、天国にいる。亡くなったのではなく、天に現れたんです。死んだのではなく、天国で生きているのです。しかもそこは悲しみも、涙も、分かれも、病いも、罪もない世界です。

天国は宝物を守ってくれる美術館

 家内がなくなった直後子供が聞きました。「お母さんが天国に行ったのは分かる。でもこの寂しさをどうしたら静められるでしょうか。」私は一つのたとえをもって説明しました。「もし君が田舎の美術館の学芸員だったとする。そこへルーブル美術館から、モナリザを借りてきて展覧会をした。期間が終わったのでもう一度元いたルーブルにまで返却しなければならない。ところが名画を狙う国際的窃盗団が何とかこれを盗み出そうとしていると言うことが分かった。君は命をかけてモナリザを抱きかかえ、ルーブルまで運び込む役についた。ルーブルに届けるまで、君はろくろく眠ることも出来ない。24時間神経をピリピリ尖らせているだろう。そしていろんな困難の末に、ようやくルーブルに届けることが出来たなら、その時悲しいか?それとも、ほっとするか。」「お父さん、ほっとするよ。」その通り、天国はお母さんという宝物が、誰にも傷つけられないように守ってくれる美術館なんだ。
 天国ってどんなところでしょう。神自らが、あなたをねぎらい、労り、大切にして下さるところです。どうぞあなたも救い主イエス・キリストを信じて、この天国へ行く備えをなさって下さい。心からお勧めしたいと思います。



大和田広美:もう心配しないで
新約聖書 ピリピ人への手紙 2:21 コロサイ人への手紙 3:2
 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。