No.499 2009年10月18日 「キリストによる深き平安」
おはようございます、高原剛一郎です
先日イギリスのショッピングモールでおもしろい報告がなされていました。その店は売り場面積の割にエスカレーターが少なく、いつも混雑していました。ある女子社員が解決策を提案したんですね。階段の一段一段に標語を書いたんです。たった一言。「階段の昇り降りは、あなたの健康を支えます。」6週間後には階段を利用する人が圧倒的に増えたそうです。ことばって不思議ですね。それまでの見方を変えてくれるからです。そして、見方が変わると行動も変わってくるんですね。
神のことばは永遠のいのちを授ける
ところで、神さまのことばは単にものの見方だけではなく、私たちの心の中に新しい永遠のいのちを授ける力なんです。今日は十字架にかかる直前に、イエス・キリストが弟子たちにおっしゃったことばを紹介致しましょう。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
この世界の本当の主権者、神を覚えること
キリストは何が起こるか予想も付かない世の中で、平安を持ち続ける秘訣をここで教えて下さいました。その第一は、「この世の本当の主権者、支配者、勝利者は神だ。ということを覚えるっていうことなんです。何故この世界の本当の主権者が神さまだったら平安に思えるんでしょうか。神はあわれみ深い方だからです。
激動の日々と不思議な平安
実は私はこの夏から激動の日々を送っています。それは私の家内がとても重い病に倒れてしまったからです。目の前で苦しむ彼女の姿を見るのは、私にとっては耐え難いことでした。また、検査とその結果を聞く度に、心臓が止まりそうになりました。しかし、いくつかのことを思い起こすと、私たちの心に不思議な平安が降りてくるのです。その一つは、神はあわれみ深い支配者だということです。私たちは今まで数え切れないほど、神さまの恵みを受けて来ました。自分たちの人生を考えて出てくる結論は、神は恵み深く、親切で、情け深い神であるということです。
ありふれた日常生活の幸い
ある時、入院中の彼女の病室へ入っていきました。するとベッドの傍らに中学生の娘が座っています。よく見ると、親子で家庭科の夏休みの宿題をしていたのです。本当は親が宿題を手伝ったりしてはいけないんでしょうが、二人は一生懸命裁縫にいそしんでいました。それはそれは楽しそうにしてたんですね。家内は幸せをかみしめていました。私はそれを見ながら普通の生活、ありふれた日常生活を送れるということがどんなに幸せなことかと思ったのです。同時にそんなにも幸せな毎日を暮らしていながら、なんて今まで気づかずに来たんだろう。なんて些細なことにいらだったりして来たんだろうと、感謝知らずな自分のことを恥じました。
幸せってなんでしょう
幸せってなんでしょう。それはおそらく築き上げていくものというより、神の恵みに気がついて行くことではないかなと思います。もし自分が神さまにどれほど恵まれているかと言うことを知りたければ、今持っているものを一旦すべて取り去られて、しばらく後に元に戻していただくことだと思います。
健康も、家族も、自由も、仕事も、友人も一度失ってみたらどれほど尊いものかと言うことが身にしみて分かってきますね。それを本当に失うのではなく、失ったと仮定し、また戻していただいたのが今だと思えば、今が輝いて見えるのではないでしょうか。或いは今の自分自身について、一度致命的に失敗して、本当だったら生きる資格をなくしていたんだけれども、例外的にやり直しのチャンスをいただいて、生かされているのだと思ったら、どうでしょうか。今、生きているというだけでも、滅多とない幸福をいただいているんだってわかるんじゃないでしょうか。
キリストの計画の中にある平安
第二に、キリストの計画の中にあることによって、人は平安を取り戻すことが出来るのです。キリストのすることに間違いはないからです。神さまは、一人一人に最高のプランを用意しておられるんですね。その事実を単純に信頼するときに、平安がやってきます。
家内は、病気がどんどん進むにつれて、げっそりと痩せ、体の色が真っ黄色に変色していきました。私は気が気でありませんでした。かわいそうでたまらなくなり、心に落ち着きもなく、ただ途方に暮れるばかりでした。さらに、街で快活な女性を見たときに、何とも悪い考え、ねたましい思いが湧いてきたんです。というのは、家内は以前、とても快活な女性だったからです。どうして彼女が病気なのに街行くあの女性は元気のままなんだ。どうして彼女ばかりこんな辛い目に遭うんだろう。ふと、そんな思いがこみ上げてきそうになります。どうしてそんな風になっっちゃったんでしょう。その健康な人と比べたからですね。
神の計画の中にある最高の道
ある時そのことを家内に話しました。すると意外な答えが返ってきたのです。「もし私が健康な人なのに、急に痩せたり、体の色が変化していたんだったら、大騒ぎして当然でしょう。でも、私は今は病気なので、痩せて、黄ばんでいってるのよ。健康な人と比較して一喜一憂する必要はないと思うわ。私たちには私たちへの神さまの計画があるんだから。」なるほどと思い元気が湧いて来ました。
もし誰かと比べたら私はひがんだ男になってしまいます。しかし、絶対に間違ったことをしない神さまが彼女に対して、また私に対して深いお考えの基に、今のこの状態を許しておられるんだ。私たちは神の計画の中にあるんだ。神さまは私たちに最高の道を行かせて下さるのだと思うと、不思議な平安に満たされるんです。
神の計画の動機は100%愛
第三に、「神さまの計画の動機は、100%愛だ」ということに目をとめるということですね。なんでそんなことを言い切れるんでしょうか。神さまは、ご自分の愛するひとり子、イエス・キリストを十字架につけて下さったことによって、あなたに対する愛を証明しておられるからです。イエス・キリストはあなたのすべての罪を背負って十字架に架かり、あなたの罪の責任を身代わりに引き受け、神の罰をことごとく取り除いて下さったんです。そして、三日目に復活し、私たちがこの世にいる間、私たちの最大の恐れとなっている死の問題ですら、解決して下さったんですね。キリストを救い主として信じる者は、たとえ死んでも、死後、裁きに会うことがなく、永遠の天国に行くことが定まっているのです。
天国ってどんなとこでしょう
ところで、天国ってどんなとこでしょう。ある朝目覚めたとき、自分が心から愛している人から、自分が愛する以上の愛で愛されていると分かるような国。好きな音楽で目を覚ましたとき、そのメロディーが今まで以上に心にしみて、大きな喜びで満ちるような国。新しい一日を始める度に、美しい宝物を発見するような予感が湧いてくる国。良心の呵責を何一つ感じない状態にされている国。自分の内面をじっと見つめても自分のことが少しも嫌いにならない国。神さまを大喜びで愛し、すべての人を進んで愛せるような国。もしこんな国があったら行きたいと思いませんか。私は行きたいですね。あなたも行くことが出来るんです。どのようにしてですか。キリストを救い主として信じることによってです。どうぞ、あなたのための救い主イエス・キリストを心に受け入れ、この永遠の望みを得て下さいますように、心からお勧めしたいと思います。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。