No.495 2009年09月20日「永遠の遺産」
おはようございます、高原剛一郎です
アメリカのテレビドラマで長年にわたって、正義の弁護士役として人気を集めた俳優に、ヒュー・オブライエンという人がいます。彼は芸能界に入って、運良く成功した人は、5つのプロセスを通ると語っています。
成功した人の五つのプロセス
第一段階は「ヒュー・オブライエンって誰」っていう段階です。新人の時には、まず名前を覚えてもらうことが一番大事なことですね。
第二段階は「ヒュー・オブライエンを下さい」です。これは初めて成功を味わうときです。声がかかって出演回数が凄く増えていくんですね。
第三段階は「ヒュー・オブライエンのような人を紹介して下さい」です。これは全盛期なんですね。誰もが私のような人をほしがっている。でも私を雇う金がないんです。それは私が超売れっ子でギャラが高いからですね。
第四段階は「若かった頃のヒュー・オブライエンのような人を紹介して下さい」です。誰でも年を取ります。芸能人は比較的年を取らないように思われますが、しかし、かつてのヒロインもやがてお母さん役、おばあさん役に回るんです。
そして、第五段階は「ヒュー・オブライエンって誰」です。ヒュー・オブライエンはいつか死にます。そして彼のことを知っていた人々も死にます。やがて彼を知っている人は一人もいなくなります。まるで初めからいなかった人のようになり、やがて誰もその名前を口にしなくなります。そして新人の時と同じように、ヒュー・オブライエンって誰って言うんです。
人生はなんて空しいんでしょう
人はたとい成功したとしても、最後は人々の記憶の中にすら残らない。まるで水蒸気のように、今あったかと思うと、次の瞬間どこにもない。これが人生であるとしたら、なんて空しいんでしょう。
ところが聖書はこの空しい存在の人間に、神さまはいつまでも残るものを与えることが出来るのだと語っているんです。聖書はこう言っています。
「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは、愛です。」
いつまでも残るもの−信仰
ここに永遠とつながる三つのものが紹介されています。いつまでも残るものの第一番目は、信仰です。 ところで信仰って本当にいつまでも残るもんでしょうか。
リスナーからの2通の手紙
先日、リスナーの方のお手紙にこんなことが書いてありました。「私はこの番組を聴いてるときには、よーし信じよう。きっと間違いない。神さまを信頼して生きていくぞと思うけど、ラジオを切って2、3時間もすると、やっぱり私には無理だ。私がクリスチャンになるなんて言ったら、親からどやされ、友達から煙たがられ世の中わたって行くことなんか出来ない。やっぱり無理と思えてきて、そうこうしているうちに3年たちました。」って言うんですね。
また別の方のお手紙にはこう書いてありました。「教会へ行ったらそれはそれは見事な信仰の方々ばかりで、そういう偉大な信仰者を見ていると、とてもじゃないけど私も信じてるなんて言えなくなる。私は教会へいって慰められるかわりに、劣等感を植えつけられてしまいますというんです。いつになったら立派な信仰に到達できるんでしょうか。」
一番大切なことは信仰の対象
私はこの2通のお手紙を読みながら、信仰というものを誤解しておられるように思えてなりませんでした。信仰で一番大切なことってなんでしょう。それは立派さ、或いは揺るがないというその不動のもの、或いは、篤い信仰というように、その信じ方にあるんじゃないんです。信仰で一番大事なのは、何を信じているのかという信仰の対象なんです。では、聖書の語る信仰とは何を信じることなんでしょう。一言で言うと、神は私が自分で出来ないことを代わりにして下さると信じることなんです。
猿の親子型信仰と猫の親子型信仰
昔、日本を代表する神学者に北森和夫という人がいました。彼は信仰を猿の親子と猫の親子の関係になぞらえて説明しています。
お母さん猿は両手足を使って、木によじ登っていきますので、背中の小猿は、自力でしがみついていないと振り落とされてしまうんですね。ところが猫の場合は、母猫が子猫をくわえて運び歩くので、子猫が眠ろうがあばれようが、決して振り落とされることはないんです。
聖書の語る信仰とは、猿型ではなく、猫型なんです。私の信念でキリストに従い通してみせるというのではありません。神には弱い私をも、従わせることが出来ると信じる信仰なんです。信じる者の実力にかかっているんではなく、信じられる神の能力にかかっているという在り方が聖書的信仰なんです。神がして下さるということであるなら、それは途切れることがありません。即ち、いつまでも残るんです。
いつまでも残るもの−希望
いつまでも残る第二のものは希望です。ところで、希望の希という漢字は薄いとも読めるし、まれとも読めますよね。ですから、日本語で希望というのは、望みが薄くてまれにしかかなわないと言うことを意味するんですね。それはいつまでも残るものとは、言えないものです。すぐに消えていくものです。しかし、その約束を交わした相手が、絶対的にウソ偽りのない存在であるとするならば、どうでしょうか。聖書は私たちに神の約束に基づく希望を語っています。
聖書は神が約束を守った実績の書物
どうして神さまの約束はいつまでも廃れることはないと、言い切ることができるんでしょうか。実は神さまは人類歴史の中で、何十回も何百回も、約束したことは、何があっても必ず果たして来られたという実績を残しておられるんです。そしてその実績を記録しているのが、聖書なんです。中でも最大の記録は、キリストの復活です。人間にとって何が不可能といって、死を滅ぼすこと以上に難しいことはないでしょう。しかし、キリストは前もって語っていた約束通りに、一度死に、三日目に死を突き破ってよみがえられたのです。この衝撃的事件を目撃してしまったが故に、弟子たちはキリストの福音を宣べ伝え聖書の福音はローマ世界に爆発的に広がっていったんですね。
いつまでも残るもの−愛
第三に、いつまでも変わらないもの、しかもその最大のもの、一番優れているものは、愛です。と聖書は語るんです。 私の人生の最大の宝物は、私が出会った人々の中にあると思います。なぜそう思うかというと、この人たちこそは、今の私を作った人々だ。と思うからです。今の私を形作るために、神さまがお用いになったお一人お一人だと思うからです。その中には、すでに亡くなられた方もいます。しかし、亡くなられたからと言って私の中で決してその人の存在が消えることはありません。ヒュー・オブライエンって誰とは言えないのです。私には。むしろ時間が経つに従って私の中で大きくなり、勇気を与え、心の芯を暖かくし、奮い立たせる人たちです。
何かしてくれたことはいつまでも残る
では一体彼らは私に対してどんな素晴らしいアドバイスを下さったんでしょう。正直言って覚えてないんです。私は彼らが語ってくれた知恵については、さっぱり覚えてません。しかし、彼らが私にしてくれたことについては、残っているんです。彼らは私のために、泣いてくれました。応援してくれました。祈ってくれました。一言で言うと、愛してくれたんです。 このような愛を人に与えることが出来たのは、彼らがまず神からいつまでも変わらない愛を受けていたからだと思います。何かを残せる人生は、いつまでも変わらないキリストとつながることで始まるんですね。どうぞあなたもイエス・キリストを信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。