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Bible & Gospel

No.494 2009年09月13日「詩篇の祈りに見るあわれみの神」

おはようございます、高原剛一郎です

 私は先日、星野富弘さんというクリスチャン詩人の詩画展に参りました。そしてそこには彼が詩を作るきっかけとなった無名の人の詩が紹介されていました。「星空の下を歩いていると、オラの心は物思いにふける。貧乏でけちな人間のために、イエスさま。オラたちの救い主よ。あんたなぜ生まれて下さったんだ。それも死ぬためによ。」短い詩ですが、読むだけで胸が熱くなります。「キリストってどんな方か」ということが伝わって来るからですね。

聖書の中にある詩

 ところで、聖書の中にも詩があります。その名も詩篇と呼ばれているんですが、元々の意味は祈りって言う意味なんですね。この詩篇は昔からたくさんの人々に愛されてきました。飾らない言葉と祈りの中に、神さまってどんな方なのか、ということが分かりやすく示されているからです。
 この詩篇の中に、こういうのがあります。
 「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。」

神はどこで祈ってもこたえることが出来る方

 ここに神さまについて三つのポイントが紹介されているように思います。第一に、神はどこで祈ってもこたえることが出来る全知全能の造り主だということです。

安藤忠雄の住吉の長屋

 大阪出身で今や世界的な設計デザイナーに安藤忠雄さんという方がいらっしゃいますね。彼は高校を卒業してから、世界中の有名な建物を見て回り、独学で建築をマスターしたそうです。彼はスタートの時から、一つのポリシーがありました。それは、見るだけで心が落ち着き、静まり、またはわくわくするような空間を作りたいということです。二十代の頃からその夢を追い続け、その思いのままに建物を造ってきました。そしてとうとう日本建築賞を取ったあの有名な建物「住吉の長屋」を作るんです。ところがこの建物を日本建築界の長老、村野藤吾さんが見学に来てこうおっしゃるんですね。素晴らしい、けどこれを頼んだ人はすごく勇気がある。ましてやここに住んでるとはすごいことだ。だから賞は安藤ではなく、住人にやれ。

凄い建築家だけが凄い住まいを建てることが出来る

 実はこの長屋風の建物は見る分には素晴らしいんですが、実際そこで生活するとなると、不便この上ない構造になってたんです。雨の日は傘をささないとトイレに行けないんですね。彼はこの批評を聞いて初めて「そうだ住人がいたんだ」と気づくって言うんです。そして、彼は空間が美的なだけではなく、住人にとって住みやすく、便利で合理的で安全な建物を作ろうと目指すんですね。  しかし、この条件を全部満たそうとすると生半可なアイデアでは出来ないんです。見た目に美しく、住んで心地よく地震に強くて、防犯上優れてる。そんな建物を作れるのは優れた建築家だけです。凄い建築家だけが凄い住まいを建てることが出来るんですね。

宇宙で最も凄い住まい

 ところで、私たちは皆、宇宙で最も凄い住まいに住んでいるということをご存じですか。それはこの地球のことです。見ただけでほっとする。死の広がる宇宙空間の中で、この星だけが生命体を保つ条件を全部満たしています。四季があります。空気があります。水があります。適当な温度調整システムが備わっています。この地球ほど人間にとって、また生命体にとって凄い住まいはないんですね。そして、凄い住まいには凄い建築家がいるんです。この凄い地球の建築家を神って言うんですね。神さまとはこの宇宙と地球の造り主です。全知全能の作者なる方なんですね。

神は義なる方

 第二に、義なる神です。義とは何でしょう。正義のことです。神とは悪を憎む方なんですね。  私たちは多くの人々は日頃、神の正しさを恐れるということがあまりないと思います。なぜでしょう。自分のやってることがばれないと思っているからではないでしょうか。

やましい嘘を見破られた作家の向田邦子

 昔、作家の向田邦子さんがある雑誌の編集の仕事をしていたときのことです。締め切り間近で編集部は猫の手も借りたいほどの忙しさでした。ところが、その日、帝国劇場で彼女がどうしても見たい芝居の最終日だったんですね。そこで彼女は嘘をついて、早退するんです。「田舎の母が危篤状態で」って言うんですね。社長の特別許可をもらった彼女はいそいそと劇場に入り、幕が開くのを楽しみに待っていました。そして、いよいよ始まろうとしたその時、ふと隣りを見ると、何と社長が座っているではありませんか。目と目がばっちり合ってしまいます。しまった。恥ずかしさと居心地の悪さで彼女は席を立って、街の中を延々走り続けるんですね。「明日なんて言って言い訳したらいいだろう。」どこをどう歩いたのか、もうのどがからからに渇いたので、喫茶店に飛び込んでアイスコーヒーを頼んだその時、向かいの席に劇を見終わった社長が座っているっていうんです。顔から火が出るほど、恥ずかしかったと同時に天の神がご覧になっているように思った。っていうんですね。  どうして彼女は、社長を恐れたんでしょう。やましい嘘を見破られてしまったからです。同じように、人のするすべての行いを見破っておられる神がおられるのです。神はいかなる不正をも見逃すことのない正義の神なのです。

神は憐れみ深い方

 第三に憐れみ深い神です。確かに神さまは正義の神ですが、同時に罪を悲しみ悔いるものには、憐れみ深い方なんですね。では憐れみとは一体どのようなものなのでしょう。

憐れみを受ける資格がないものに与えられる憐れみ

 昔、ナポレオンの兵隊の中に軍の規律違反をしたものが出ました。彼は処刑されることになったのです。それを知った彼の母親はナポレオンのところに駆けて行き、跪いて大声で赦しを請います。「どうぞ息子を赦してやって下さい」と嘆願したのです。ところがナポレオンは、こういいました。「だめだ。なぜなら、彼の違反は二回目だからだ。彼は前にも一度、恩情を掛けてもらっている。繰り返すような愚か者には、二度目のチャンスはない。彼には憐れみを受ける資格などないのだ。」
 ところが、母親はなおもナポレオンに食い下がってこう言ったそうです。「閣下。あなたのおっしゃるとおりです。でも、憐れみを受ける資格のあるものが受ける憐れみはもはや憐れみとは言わないのではありませんか。憐れみを受ける資格がないものにこそ与えられる温情こそは憐れみというのではありませんか。私が願っているのはその憐れみです。純粋な憐れみです。」

憐れみとは一方的な神の恵み

 憐れみとはそれにふさわしくないものに与えられる一方的な神の恵みです。罪人となり果てた人間に神はイエス・キリストによって赦しと救いを用意して下さったのです。どうぞあなたも憐れみの神、イエス・キリストにすがって、義なる神の前に立ち返ろうではありませんか。心からお勧めしたいと思います。



国分友里恵:十字架にかけられた
旧約聖書 詩篇4:1
 私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。