No.492 2009年08月30日「主は私の羊飼い」
おはようございます、高原剛一郎です
今、世の中には危険なところがたくさんありますね。雨の多い季節ですとがけの下にある家は、土砂崩れの危険があります。地震大国の日本では、どこへ行っても危険地帯です。またアフガニスタンという国では連日テロ攻撃があって平均寿命は50才代だって言うんですね。しかし、マーク・トゥウェインという人によると世界で一番危険な場所はベッドだというんですね。なぜなら人類の80パーセント以上はここで死ぬからだって言うんです。確かに人は横になって息を引き取る人が大半です。でもベッドという本来安息のスペースを「一番危険な場所だ」と皮肉ったのは彼自身が死の問題に対する解決を持っておらず、死に関して神に苦々しい思いを持っていたからだと言われています。ところで、あなたは死の解決を持っていらっしゃるでしょうか。
羊飼いと羊の関係
聖書の中に何十回も死ぬような目に遭いながら、遂に国王の地位にまで上り詰めた人物がいるんですね。ダビデという人です。彼は少年時代、羊飼いをしていました。羊の世話を一から十まで全部引き受ける人です。
ところで、羊という動物は、本当に弱くて愚かな、しかし、素直さにかけてはピカいちの生き物だそうですね。横向けに転んだ羊が勢い余って、仰向けになってしまうと自分では二度と起き上がることは出来なくなるそうです。足を空に向けてバタバタバタバタと、このー、バタつかせ、メエメエと悲鳴を上げるんです。実は羊は仰向け状態を長時間続けていると、胃袋にガスが溜まってこちこちに固まってしまい、やがて気道が塞がれ遂には窒息死してしまうって言うんですね。羊にとっては、躓き倒れると言うことすらもそれだけで命取りになることなんです。
目は近視で、足は遅く、角は武器として役に立たず、鼻は鈍く、肉だけうまいという羊は、肉食獣の獣にとって、絶好の標的です。しかし、この羊を守るためにこそ、羊飼いがいるんです。
ダビデはそんな弱くて迷いやすい羊と羊飼いの関係を、人間と人間を導く神さまの関係になぞらえて詩を書きました。詩編23篇と言われているところです。このような書き出しです。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」
人生の幸福宣言
ここには人生の幸福宣言があります。今世の中には大金持ちの人や、健康で元気な人や、才能溢れる人、高い地位についている人、いろんな物に囲まれている人はいると思いますが、「乏しいことが一つもないですか」と聞くと、何かしらこれが足りない、あれが不足しているここが問題で、あそこがトラブルだって言うんじゃないでしょうか。しかし、何十回も死ぬような目にあったダビデは、人生を総括したとき、「我が人生に乏しいものなし」と言い切ることが出来たのです。なぜそのように言えたんでしょう。主が彼の羊飼いであったからだと。全能の神さまにして救いの神が彼の人生の面倒を見る羊飼いであるならば、少々自分が無能で弱くて迷いやすいものであったとしても、人生に乏しいものはないのです。
羊飼いは羊と共にいて下さる方
その理由は三つあると思います。
第一に、救い主という羊飼いは、人生のいついかなる時にも、羊と共にいて下さる方であるからです。
私は先日、あるクリスチャンホームを覗きました。その家では一家の主婦が末期の癌に冒されていました。主婦が倒れると家の中大変ですね。ところが、彼らの家庭はびっくりするぐらい、明るいです。賑やかです。笑いがあります。一人一人がお互いをいたわります。みな自発的に働きます。毎日毎日が新鮮です。今日という一日は一生に一回しか来ないということを誰もが感覚的に悟っています。そして何よりもそこに、神さまへの信頼があります。
人生の中で思いがけないことが降りかかって来ることがありますね。しかしそのとき、それを神の罰と捉えるのか、或いは愛なる神さまの最善と見るかで人生に対する向かい方が随分違ってきますね。神は苦難の中で、あなたのすぐそばに寄り添って下さる方です。そして、「私はいつも最善だけをするんだよ」と呼びかけて励まして下さる方なんですね。
羊飼いにとって最善は羊にとっても最善
第二に、羊飼いにとって最善なことは羊にとっても最善なことに違いないということなんですね。 私たちはどういうときに自分の乏しさ、小ささ、むなしさということを痛感するでしょう。それは、自分の人生に意味を見いだせないようなときではないでしょうか。そして、自分の人生の意味というのは、自分にとってどれだけ得をしたか、どれだけ楽しかったか、利益を得ることが出来たかという観点で見ている限り、なかなか人生の意味を見出すことは難しいんではないかなと思うんですね。なぜなら人生は自分のためにあるのではないからです。神のためにあるんですね。
意味のあることに貢献することが人生に意味を与える
ある人が、海岸を歩いていると何かぐちゃっと踏んだような感触があったんです。よくよく見ていますと、浜辺に無数のヒトデが打ち上げられているんです。どういうわけか海がヒトデを押し流しているんですね。「ああ自然というのは時に残酷なものだなあ」とつぶやきながら、しばらく行くと一人のおばあさんがヒトデを拾ってるんですね。そしてそれを一匹一匹丁寧に海に返しているんです。彼は思わず彼女に聞きました。「何してるんですか。」「はい。ヒトデを海に戻してあげてるんです。」「でも、そんなことやったって意味ないんじゃないですか。だって、あなたが一匹海へ返している内に20匹は打ち上げられていますよ。まさに焼け石に水でしょう。そんなことに体力を使うなんて意味がないでしょう。」その時彼女はこう答えたそうです。「でもあのヒトデにとっては意味があるわ。」自分にとって意味があるか、ないかではなく誰かにとって意味のあることに貢献するということが人生に意味を与えるものなんですね。
ヒトデにとって意味のあることが出来ることですら、人に生きる意味、生き甲斐を与えるとするならば、ましてや神にとって意味のあることに人生を使うことは、もっともっと素晴らしいことではないでしょうか。神さまと関連づけられた人生こそは、人生を意味あるものにするんですね。今、自分の目には不可解な試練や病気や倒産やリストラやいろんなこと、でも神の目には意味があるものであるとするなら、耐えていく力となるのではないでしょうか。
何より豊かな方がいのちを捨てて下さったという事実
第三に、人生が乏しくない理由、それはどんなものよりも豊かな方が、あなたのためにいのちを捨てて下さったという事実があるからです。
あなたの良き羊飼いである神さまは、羊のために喜んでいのちを捨てる方だからです。あなたがまことの神さまとの関係を回復するためにイエス・キリストは十字架に架かって、ご自分のいのちを犠牲にして下さったんです。そして、本来あなたが受けるべき罪の裁きを一身に、引き受けて下さったんですね。そして、死後三日目に、死を突き破って復活されたんです。どうぞ、あなたの羊飼い、あなたの購い主、死んでよみがえった救い主イエス・キリストを、自分の救い主として信じ受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。