No.488 2009年08月02日「意味を与える創造主」
おはようございます、高原剛一郎です
今から数年前、ジョギングを終えた私は見慣れない自動販売機を見つけました。よく見ると、オール100円と書いてあるんです。コーラであろうが缶コーヒーであろうが全部100円均一の自販機です。しかも当たりくじ機能がついているんですね。当たればもう一本無料でもらえるといううれしい自動販売機です。それで缶コーヒーのボタンを押しました。なんと当たりです。すべての商品のボタンが点灯してるんですね。どれを押しても良いということです。それでもう一本缶コーヒーを押しますと、なんとまた当たったんです。「そんなことどうして起こるんだろう」と思って三度押すとまたまた当たったんですね。「どうも故障しているみたいだ」と思って、よーく機械を見てみると預かり金額700円と表示されているんです。……
無意味なことは人を無気力にする
しばらく考えている内に思い出したんですね。初めに1000円札を入れてたんですね。実は今の自動販売機はおつりボタンを押さないと、自動的に追加注文になるんです。つまり私は当たったんじゃなくて、自分のお金で買ってたんですね。得したのではなく、無駄使いをしてたんです。勝手に勘違いして、勝手に喜び、勝手に興奮してたんですが、真相が分かったときには、ばかばかしくて力が抜けました。意味のないことに興奮していたからです。
無意味なことって本当に人を無気力にしますね。私たちがいきいきと躍動して生きていくために必要なものって何でしょう。意味のある人生を生きているのだという確信、実感ではないでしょうか。人生は生きるに価するという意味を見いだしていると言うことが人生のエネルギーとなるのではないでしょうか。
人生に意味を見出す3つの知恵
聖書はこう語っています。
「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(新約聖書 ヘブル人への手紙2:10)
ここに人生に意味を見出す3つの知恵が書かれてあるように思います。
万物の存在の目的者は神だと知る
第一に、あなたを含めた万物の存在の目的者は、神だと知ることです。こんな絵本があるそうです。一枚目にはインクのシミがページの真ん中にべとっとついている。2枚目のページにはそれがダルメシアンという犬の斑点だと分かるんです。3ページ目にはその犬の絵柄のついたネクタイを締める素敵な男性が描かれているんですね。そして4ページ目には、その男性がペットショップで子犬を買って子供にプレゼントしているシーンです。はじめのくろいシミだけをみているとそこに何のメッセージも見出すことは出来ません。しかし、全体を知ってみるとただのシミではなく、犬の模様なんだなあって分かるんですね。
自分を見つめても意味や価値は見えてきません
これは人間についても言えることだと思います。自分だけを見つめていても、自分の意味や価値は見えてきません。自分を出発点にして自分を意味づけようとしても、無理があるんですね。しかし、あなたを造り、あなたの周りにいる人々を造り、あなたの生活する環境を造り、あなたの生きているこの世界を造り、この天地万物をお造りになった神に行き着くとき、自分の意味を見出すことが出来るんです。すなわち、ああ、私は神によって造られ、神によってこの時代、この家族、この国に生かされているのかと分かるんです。あなたを造られた神さまは決して間違いを犯す神ではありません。絶対に失敗しない神さまがあなたをお造りになった以上、あなたの存在は絶対に間違いではないのです。神は意味があってあなたをお造りになったのです。
神に造られた自分を受け入れる
第二に、神に造られたものとして自分自身を受け入れると言うことです。人間ってどんな人でも、何かしら劣等感を持っていると思います。もしそんな劣等感一つもないという人がいたら、ま、その方は人生の達人なのか、或いは、自分に対する正直さを欠いている人だと思います。どんな人でも自分の中のいやな面足りない点、嫌いなところって持っていると思うんですね。では一体どうすればそんな自分をも受け入れていくことが出来るんでしょう。 イソップ童話の中に、湖の水面に自分の姿を写してうっとりする鹿の話があります。その牡鹿は頭に生えている見事な自分の角を見て、我ながらほれぼれするんですね。なんて立派で美しい角なんだろうとため息をつくのです。ところがよくよく見ると、自分の足がいかにも貧弱に見えてくるんです。痩せて細くて頼りなげでどう見ても男らしい姿には見えない。その自分の嫌な面を見て、「ああ、これさえなければパーフェクトなのになぁ」「足も太くて逞しければ言うことないのになぁ」とため息をつきます。
良いところも悪いところもある人間
その時、突然ライオンが襲いかかってきたのです。鹿は全速力で逃げました。みるみるうちに鹿はライオンを引き離し、森の中へ逃げ込んだのです。ところが、角が森の木の枝に引っかかって身動きがとれなくなってしまうのです。そこへライオンが追いついて、食べられてしまうのです。今際の際に鹿が言うんです。見下していた細い足はいざというとき自分を助けてくれたのに、自分の角が命取りになるとはなあ」人生においても同じです。自分の目にこんな性格嫌だなあという短所が案外自分を守って来てくれたと言うことが過去にあったのではありませんか。長所だけで出来ている人間なんていません。良いところも悪いところもあって、人間ですね。人間をそのように個性的に造って下さったのは、神なのです。「弱さも、私の一部であり、私を助けるためのものになり得た。」と知ると言うことが弱さを含めた自分を受け入れていく秘訣です。
救い主イエス・キリストを知る
第三に、あなたのために多くの苦しみを通って、救いを成し遂げて下さったイエス・キリストを知ることによって、自分を受け入れることが出来るのです。 キリストは、神に反逆して自己中心の生き方を続けている人間のために、多くの苦しみを通って、十字架にまで架かり、人間に代わって反逆の罪の罰を引き受けて下さった方です。どうしてそのようにして下さったんでしょう。あなたを愛しているからです。キリストはあなたを愛しておられるのです。あなたへの愛がキリストに多くの苦しみを耐えさせました。キリストが命をかけて愛したその罪人を、あなたも受け入れるべきなのです。これが、自分自身を受け入れる根拠です。罪人であった私たちのために、いのちを捨てて下さったキリストの愛、キリストが赦して愛してくれたその自分をもまた私は受け入れるべきなのです。
すべての解決はキリストの中に
すべての解決はキリストの中にあるっていうことなんですね。どうぞあなたもイエス・キリストをご自分の救い主として信じて下さい。あなたのために死に、三日目に復活し、あなたを新しい人生の中に導き入れることの出来る唯一の主権者、この生ける救い主を今日是非受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。