No.487 2009年07月26日「勇敢に生きる秘訣」
おはようございます、高原剛一郎です
私は先日、NHKの英語会話で13年間にわたって講師をつとめた東後勝明さんの本を読みました。彼は洗礼を受ける前に牧師に質問したそうです。「洗礼を受けたらどんないいことがありますか。」と。すると牧師は答えたそうです。「特にありません。洗礼を受けても病気になる、リストラにあう、死ぬときには死ぬ。」それを聞いて「よし。受けよう。」と思ったそうです。「偽りが満ちているこの世界の中で、真理である神さまに従って行く意思表示をして、前進していくなら困難が来るのは当然だ。いいことしか約束しないのは、単なる御利益宗教であって、私はそんなものはいらん。」って言うんですね。いや、気持ち良いですね。
イエス・キリストのことば
さて、イエス・キリストは十字架に架かる前にこのようにおっしゃいました。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
この世の条件に左右されない平安
キリストが下さる平安というのは、何事もなく無事なので平安という平安じゃない。たとい病が来ても死が来ても、迫害があっても、それでも与え続けられる平安、「この世の条件に左右されない平安を与えましょう。」と弟子たちに宣言されたんですね。それは一体どんな平安なんでしょうか。
罪赦されているという平安
第一に罪赦されているという平安です。 私は5月の中旬から約3週間カナダという国に行きました。ところが出発前ちょっとした騒ぎがあったのです。神戸の高校生たちがカナダにホームステイして帰国したんですが、その中に、何人も新型インフルエンザに罹った人がいたんですね。それで、発症してない高校生たちもホテルに1週間缶詰状態になったんです。そのころ日本ではカナダというと新型インフルエンザの猛威が吹き荒れる国というイメージだったんです。それで私も不安になりました。そしてホームステイ先のホストに、「行っても大丈夫ですか。」って聞いたんです。実はこのホストは日本人のお医者さんでした。彼曰く「大丈夫です。安心して来て下さい。万が一こちらで罹っても私が全部面倒を見てあげますから。」と約束してくれたんです。私はすごく勇気が出ました。なぜでしょう。権威ある病気の専門家が「大丈夫だ。万が一の時には面倒を見ます。」と約束してくれたからです。
キリストは罪の病を完治させる名医
聖書には、罪を病気になぞらえて説明している箇所があります。そして、聖書はキリストのことを病気を完治させる名医として紹介しているんです。キリストはあなたの罪を完全に消し去り、罪の結果である永遠の死を取り除くことが出来る方なのです。もし、「罪が完全に赦された。」ということであるなら、この世で何かが起こったとしても、何々のたたりだ、前世の因縁だと関連づけて恐れる必要が、全くなくなってしまうのです。
神の支配下にあるという平安
第二に、創造主にして祝福の源である神の支配下にあるという平安です。
こんな童話があるそうです。あるところに1匹のネズミがいました。そのネズミは猫が怖くて怖くてたまらないのです。そのおびえ方を見るに見かねた魔法使いが、ネズミを猫の姿に変えてやったというのです。ところが猫になったら猫になったで、近所の犬が怖くてたまらない。自分の姿を見る度に猛烈な勢いで追いかけ回すんです。それはネズミ時代よりもっと恐ろしい体験です。見るに見かねた魔法使いは、元ネズミの猫を犬に変えてやりました。するとその犬は虎が怖いといって悩むんですね。近くのジャングルに、夜な夜な現れる虎は番犬である自分に真っ先に飛びかかろうとする。「そんな毎日で夜も安心して熟睡出来ない。」って言うんです。仕方がない。今度は虎の姿に変えてやった。すると、「狩人の持っている猟銃が怖くて怖くてたまらない。あの鉄の筒のおかげで今までどれだけたくさんの仲間が殺されてきたのか。虎の世界のボスでもあの鉄砲の前にはひとたまりもない。」ま、話はここで終わるんですけど、もし魔法使いが猟銃を使いこなす人間の姿に変えてやっても、きっと悩み恐れは終わらないと思います。
強くなっても恐れから解放されることはない
人間にも人間の悩みがあるからです。ネズミは強くなれば恐れは消えると考えていました。しかし、強いものには、強いものの恐れがあったのです。スポーツの世界で一番強い人は、チャンピオンって呼ばれますね。しかし、多くのチャンピオンは「本当の恐怖はチャンピオンになってからやってくる。」と言います。追うものの立場よりも、追われるものの立場の方が、遙かにつらいからです。また、人気者には人気者の恐れがあるんですね。「今の人気がいつまで続くだろうか。」という恐れです。トップにはトップならではの恐れがあるんですね。人は強くなることによっては、恐れから解放されることはないのです。強いものにはより強い恐怖が待ち受けているのです。
倒れてもそれは神の手のひらに中
では、何が人を勇敢にするのでしょう。信頼出来る存在とつながることです。この世ではクリスチャンであろうとなかろうと艱難があります。しかし、神はひとたびキリストを救い主として受け入れたものに対して、どんなことがあっても見捨てることがないのです。たとい倒れ伏すことがあったとしても、それは神の手のひらに中なんです。恵みの支配下にある。これは人を勇敢にさせることではないでしょうか。
未来に希望を持つことによって与えられる平安
第三に、未来に希望を持つことによって与えられる平安です。
この地上の人生だけが人生のすべてではないと聖書は語ります。人生には続編があるんです。人が死んで終える人生は地上の人生です。本格的な人生は死後に、はじまるのです。なんでそんなこと断言できるんでしょうか。キリストは一度死んで三日目に復活し、死後の人生があることを弟子たちに確信させたからです。今の人生はリハーサルみたいなもんです。本番は死んだ後に始まる天の御国での人生なのです。
勇敢に生きていくエネルギー
私は大阪教育大学というところを卒業しました。この大学は教員を養成する大学です。当然私も教員採用試験を受けました。教育実習で子供たちに体当たりで教えていくことのやりがいを感じ、これぞ天職ではないかと思ったからです。その当時は実に狭き門で、採用者が確か三千数百人に対して100人だけでした。試験の結果手応えがあったのでまず合格しているだろうと思ってたんですね。
がっかりしても絶望はしない
しかし、不採用だったんです。私もまた周りの家族や友人もとってもがっかりしたんですね。試験って滑るより通る方が絶対良いですよ。でもがっかりしたけれども、絶望はしませんでした。私には教員になるということより、もっと高い理想があったからです。それは、神に用いられる人になりたいという理想です。その理想がいつの日にか実現するための経験だと信じることが出来たとき、喜びが湧いてきたんです。それは、私にとって勇敢に生きていくエネルギーとなりました。
もし今、勇気を必要とするかたがいらっしゃったら、どうぞ勇気の源であるイエス・キリストを信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」