No.486 2009年07月19日「不幸を知ることで幸福に至る」
おはようございます、高原剛一郎です
私は最近、日本の映画音楽を代表する作曲家、久石譲さんのCDにはまっています。あの日本的なメロディーを聴くと、なんだかほっとするんですね。先日この方のインタビュー記事を読みました。その中で、久石さんは、「メインテーマとなるすごく美しいメロディーが書けたときには、それに対立するメロディーを別に作るようにする。」っていわれるんですね。綺麗な旋律だけで構成された曲にはしないっておっしゃるんです。なぜでしょうか。綺麗なメロディーを際だたせるためです。
メインテーマを際立たせるもの
これはベートーベンやモーツァルトもそれを意識して作曲していたそうです。Aというテーマがあるとその次にはそのテーマに反対するようなBというテーマを持ってくるんですね。ぜんざいの甘さを浮き上がらせるために、ほんのちょっぴり塩を入れるのと同じです。反対の性質のものが入り込むことによってそのものの価値は際立って味わえるという方法なんですね。
不自由を経験して自由の価値を知る
これは政治についても言えます。不自由と言うことを経験している国民ほど、自由というものの価値をよく知っているんですね。飢えに囲まれた世界では、一握りの穀物への感動があります。逆にものが溢れた世界の中では、ものの価値が分かりづらくなってくるんですね。
不幸は神への反逆の副産物
ところで、「神が愛ならどうして世の中には事故や戦争や病気があるんですか?」と質問されることが時々あります。事故や戦争や病気は、神さまが初めから造ったものではありません。最善にして祝福の源である神さまは、悪や不幸を造ることはありません。この最善である神さまに反逆した結果、副産物として様々な混乱や災いが生じたのです。
聖書によると、「罪を犯した人間アダムに対して、神はエデンの園から追い出したと、エデンの東に立ち入り禁止の印を置いた」ということが記されています。
この時神さまは、なぜ人間を楽園から追放し、いばらやあざみの世界へ送ったんでしょう。苦難の中には、人間に正気を取り戻させる効果が、あり得るからなんです。
少年院か、野外キャンプか
アメリカでは問題行動を起こした少年たちに対して少年院に行くか、5日間の野外キャンプに行くか選ばせる州があります。ある町の非行少年のグループは、5日間のキャンプを選びました。こっちの方が刑務官に教育的指導を受けるより、はるかに楽だと思ったからです。
身を持って知るルールを守る大切さ
やがて彼らはキャンプのリーダーと助手によってバスに乗せられ目的地に向かいました。バスの中ではリーダーがいくつかのルールを説明します。それはこのキャンプを安全に過ごすためのものです。そして、一人一人に毛布と5日分の食料とテントを配りました。山の麓に到着すると、全員がバスから降り、徒歩で山の中に入って行きます。しかし、それは想像を絶する険しい山であったそうです。余りの荷物の重さに、ある少年はテントを置いていくことにしました。またかさばる防寒服を捨てた少年もいます。雲一つない晴れの天気を見て「雨なんか降らない」と決めつけて、雨具を捨てた少年もいました。
ルールを破れば困るのは自分
ところがなんと2日目には大雨になり、3日目は曇りで強い突風が一晩中吹き荒れました。テントのない少年たちは、野外で寝袋一つになって、ただただ我慢するよりほかなかったんですね。
別の少年たちは、食料をきちんと保管しておくというルールを守りませんでした。どうなったでしょう。野生動物によって、テントの外に出しっぱなしにしておいた食料が、食べ尽くされてしまったんです。この少年たちは、ルールを破ってもそれほど困らない文明社会で生活していました。ですからルールを守ることについて、何の価値も見いだしていませんでした。わがままになった彼らは、問題行動を起こしますが、注意されても一向に改まりませんでした。なぜでしょうか。ルールを破っても徹底的に困るという経験をしたことがなかったからです。
自然界には自然界のルール
しかし、山の中のキャンプは違いました。自然界には自然界のルールがあります。野外生活には野外生活のルールがあります。そして、そのルールを知っているベテランの言葉に服従すると言うことは、自分の命を守るために必要なことです。守らなかったことの付けは、皆自分の苦労と涙で支払うことになったんですね。山の中では泣いても叫んでも、パパもママも助けに来てくれません。ただ、こらえるしかないんです。そして、この辛い経験をするということこそが、この野外キャンプの目的なんですね。
問題の原因を考える場所
人生の中で降りかかる苦労の中には、何一つ自分が悪いわけではないのにやってくるものもあります。その場合は別のケースです。しかし、その苦労が身から出た錆である場合、錆の出るような身の処し方を改めさせ、捨てさせるには、エデンの園のような環境ではだめなんですね。悪いことをしながら何一つ行き詰まることなく、やることなすことすべてうまくいくという人生ほど、悲惨な人生はないのです。悪を行いながらエデンの園で生活することが出来るとするなら、自分が悪いということを生涯知ることが出来なくなってしまうからです。
しかし、ひどい目に遭うことによって、そもそもそんなことになった原因は、どこにあるかを頭を冷やして考えるようになるのです。多くの場合、最大の問題の原因は、神を忘れ、自分の思いつきに頼り、その場しのぎで楽な方を選んで生きてきたことの結果であるのではないでしょうか。
エデンの東には深い意味がある
ところで、神さまはなぜアダムをエデンの東に追いやったのでしょう。なぜエデンの北や、南や、西の方角ではなく、東に追いやったんでしょうか。これには理由があるんですね。実はヘブライ語で東という単語をケデマーと言います。そしてこのケデマーという言葉には、前方、前という意味もあるんですね。神さまはアダムを東に追いやったのですが、それは同時に、神の目の前、神の前方に追いやったという意味でもあるのです。つまり神さまはアダムを前へ追いやることで、彼の後ろ姿をじっと見守っているっていう意味なんですね。そして、アダムが神なき人生にけりをつけて後ろを振り返るなら、方向転換するなら、すぐ後ろに神がそこで待っているというその姿を見いだすことが出来ると語っているのです。
苦難を通して人生を再点検
苦難を通して自分の人生を再点検し、神から離れていたことを認め、イエス・キリストを救い主として信じるものは、神さまがすぐに抱きとめて下さるのだと語るのです。苦難は苦難そのものが目的ではありません。人に神を求めさせるための最後の手段なんですね。どうぞ、あなたもイエス・キリストを信頼し、ご自分の造り主のもとに立ち返って下さい。心からお勧めしたいと思います。
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。