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Bible & Gospel

No.477 2009年05月17日「神なき人生を後にして」

おはようございます、高原剛一郎です

 私は先日、四国の香川県に参りました。そして、観音寺という町へ行ったんです。そこにはこの番組のリスナーの方がいらっしゃるからです。そこで一カ所、町の名所を教えていただきました。何でも銭形平次が愛用した寛永通宝をかたどった巨大砂絵があるって言うんですね。それで友人と一緒に見に行ったんですが、現場に立っても、やたらとでかいただの砂場にしか見えないんですね。ところが近くにある山に登って山頂の展望台から眺めると、はっきりくっきりと寛永通宝の砂絵が見えたのでした。

愛の対象として創造された人間

 一つ教えられましたね。近すぎると意味が分からないことも上から見ると意味が見えてくるということです。人生の中では時に、意味不明の出来事に見舞われることがありますね。どうしてこんな病気になったのかとか。何でこんなトラブルに巻き込まれるのかとか。どうして詐欺にあったのかとか。そんなときには頭の中が真っ白になって、混乱し、落ち込んでしまいます。しかし、そのときには無意味に見えることも時間という距離を置いて眺め直すと意味が見えてくることがありますね。また上から見ることで尊いメッセージをそこに見いだせるかもしれないのです。上から見るとは、神の視点で人生を見つめると言うことです。

人間にとっての最大の損失

 ところが人間は自分を造って下さった創造主なる神様から離れて生きています。神様なんて宗教の話だと簡単に片付けてしまうんですね。しかし、自分の造り主を見失うことこそ、人間にとって最大の損失なんです。なぜなら、この神から離れるという罪こそが神からの祝福を受け損なっている理由であるからです。  聖書はこう語っています。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

神様から離れると人生の意味を失う

 では一体神様から離れると、どんなものを失ってしまうんでしょう。第一に、人生の意味を失うのです。 以前、二週間ほどホームステイさせてもらったアメリカ人のご家庭でのことです。初日にご主人があるものを持ってきて、これは一体何に使うものなのか教えてほしいと頼まれたんですね。見るとそれは耳かきでした。アメリカでは耳掃除は綿棒でするんですね。それで耳かきを見ても、何の道具か意味が分からなかったんです。そして、意味が分からないものなので、使われることなく、長い間ほったらかしにされてたんです。それで私は言葉で説明するより、実演した方が早いと思いました。「いいですか。これはこうやって使うんです。」と言って、耳の中に入れてほじってみたら、とてつもなくでっかい耳垢が出てきたんですね。汚いですね。そして恥ずかしいですね。しかし、とっても使いやすい高級な耳かきであるということが、このことではっきり分かったんです。しかし、そんなにも有用な道具なのに意味が分からないために長年にわたって放置されていたのです。

人間の存在目的は人間を造った方に聞くこと

 ところで、どうして私には耳かきの意味が分かったんでしょう。それを作った日本の国の人だからです。人間の意味も同じです。意味なく存在している人なんかいないんです。しかし、意味が分からないと大切に扱われないんです。自分の存在の意味が分からないと自分を粗末にしてしまうんです。どうすれば人間の存在目的を知ることが出来るでしょう。それは、人間を造った方に聞くことです。聖書によれば、人間を造った方の使命を果たしていくということ、これが人間の目的、意味です。人間を出発点にして、人間の目的を探っても迷宮入りになるばかりです。神様の中にこそ、あなたの意味があるんですね。

神様から離れると人を恐れるようになる

 第二に、神から離れた人は、人を恐れるようになります。創造主という真に権威ある方を見失ったがために、神以外の権威にひれ伏してしまうのです。特に、人の言葉に左右されますね。今、中学生の自殺原因のナンバーワンは「いじめ」ですが、その大半は、インターネット上の言葉による中傷攻撃だと言われています。若いときは特に友達からの評価で自分の価値を値踏みしてしまうんですね。しかし、人間は所詮人間なんです。人間の価値を定める方は、人間の作者だけなのです。

ライオンはライオン、バラはバラ

 ライオンはたとえネズミと名付けられても堂々としていますね。つけられたレッテルで中には変わらないからです。バラはたとい雑草と名付けられてもその香りの深さは、全く変わらないことでしょう。否定的な言葉で呼ばれたとしても、バラはバラなんです。逆にゴキブリのことをオオクワガタと呼んでも誰も大切にしないと思います。人がつける一方的な評価はその人の中身に何の関係もないんです。ほめられたからと言って価値が上がるわけはなく、またけなされたからと言って価値が下がるということもないんですね。そして、神様はあなたのことを何と評価なさっているんでしょう。ご自分の形に似せて造った「我が最高傑作よ」とお呼びになるのです。

神様から離れると自己中心になる

 第三に、神から離れた人は、自己中心になります。  私は以前、こんなゲームをユーチューブというインターネットの映像で見たことがあります。全員水が半分だけ入ったバケツを持っているんです。そのバケツを見ずでいっぱいにするというゲームです。水を満たすためには他の人に頼んでもいい、またその水を他の人のバケツから借りてもいい、力づくで奪い取ってもいいんです。「とにかく自分のバケツを水でいっぱいにした人が勝ち」というゲームです。一体どうなったでしょう。はじめはみんなはしゃいでやってたんですが、だんだん険悪なムードに変わっていくんですね。みんな目を血走らせながら絶叫しつつ、走り回ります。水が半分以下になった人は、いらいらし、そして、いっぱいになりかけている人も妬みをかって、その集団全体が実に殺伐として雰囲気になりはててしまうんですね。

心というバケツに愛を満たそうとする人間

 私たちはこのゲームをインターネットではなく、世の中で、日常生活の中で見ることが出来ます。水っていうのは、愛です。みんな自分の心というバケツの中に、愛を満たそうとして、卑屈になったり、居丈高になったり、喜んだかと思うとがっかりし、がっかりしたかと思うと怒りだしたりしています。みんなが半分しか持ってないので、全員が満たされるということはあり得ないわけですね。要するに奪い合う者になってしまうんです。この奪い合いを止める方法ってあるんでしょうか。もしあるとしたなら、それはお互いがわずかな愛をやりとりすると言うことではありません。そうではなく、全く別の場所から無限に湧き出す水を手に入れるということではありませんか。

神の愛は無制限の愛

 そんな愛の供給源なんかあるんでしょうか。あります。神様は無制限にあなたに愛を注ぐことがおできになる方なのです。いや、神ご自身が、愛なんです。神様はその愛をキリスト・イエスにおいて明らかに示して下さいました。イエス・キリストはあなたの罪のために自発的に十字架に架かり、永遠の裁きを引き受け、飲み干しそして償って下さったのです。そして、三日目に復活し、今、天であなたのために執り成しをしておられる方なんです。このキリストを信じることで、神様の愛とつながるんです。神様の与えて下さる愛は、溢れるほど豊かです。ですからあなた以外の人に愛を与え続けたとしても有り余るほどの愛で、あなたを満たして下さると約束してくださってるんですね。どうぞ、神なき人生を後にして、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。



オリーブ:それは神の御子
新約聖書 ガラテヤ人への手紙3:23〜24
 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。