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Bible & Gospel

No.475 2009年05月03日「権威ある罪の赦しの宣言者」

おはようございます、高原剛一郎です

 先日私は若き膝芸作家の方とお話いたしました。膝芸というのは漆塗り芸術のことです。お話の中でとっても心惹かれることがありました。実は壊れてしまった茶碗も漆でくっつけることが出来るっていうんですね。そしてこの割れ目のところに金粉を埋め込んで模様にしてしまう手法があるっていうんです。名のある茶器などは無傷のままよりも、つなぎ合わされたそのものの方が一層味のある作品に仕上がるために、非常に高価な値段で売買されるっていうんです。

 私はそれを聞いて聖書の福音メッセージを聞いた心地になりました。人はみな罪を犯し、他人を傷つけ、自分を貶め、神に反逆し、壊れた土器のようですが、救い主の手にかかれば見事な芸術作品として再生することが出来るんです。

姦淫の現場で捕らえられた女

 聖書の中にこんな話があります。
 あるときキリストの目の前に、姦淫の現場で捕らえられた女が引きずり出されて参りました。女を連れ出した人々はイエスを問い詰めてこう言うんですね。「この女は姦淫の現場で捕まったんです。旧約聖書の原則で見るならば、石打ち処刑にあたりますが、あなたはどう判断しますか。」もしここでイエスが死刑だと言えば、その瞬間にイエスは国家反逆罪で訴えられます。なぜなら、この当時ユダヤはローマ帝国に支配されていたからです。死刑にする権限はローマにしかなかったんですね。死刑と言ってしまうとローマに対する越権行為になります。しかし、ここでイエスが赦すと言えば、正義を曲げる偽教師のレッテルを貼ることが出来ました。

罪を犯した人間に立ち直る可能性はないのか

 この問いかけは実はイエスを罠に掛けるためのものだったんです。そしてそのためにこの女が利用されたんです。公衆の面前で、姦淫行為を暴露された彼女は、おそらくこの社会で生きていくことは出来ないと思います。今から2000年前のユダヤの道徳は今とは比べものにならないほど、厳しかったからです。この時点で彼女の社会的生命はなくなったも同然です。一生涯ふしだらな女としての烙印を押されてしまったんです。いくらイエス・キリストを罠に掛けるためとはいえ、どうしてここまでひどいことを彼女にすることが出来たんでしょうか。それは、この女をものとしてしか見ていなかったからです。人々にとってこの女性は人間ではありません。物です。物なので物扱いしても平気です。まるで感情も人格もないかのように、こっぴどく扱うことが出来るんです。どうして物扱いすることが出来るんでしょう。ひどすぎる過去のある人間には、未来はないと考えているからです。あまりにも醜い罪を犯した人間には、醜い結末がふさわしいと考えているからです。汚い罪を犯した人間には立ち直る可能性はないと見ているからです。

罪のないものが最初に石を投げよ

 しかし、キリストはこのような見方を退ける方なのです。人々はキリストに詰め寄って「さあ死刑なのか。どうなのか」と迫ったそのとき、イエスは答えました。「あなたがたの中で罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい。」その瞬間、キリストのことばが人々の心の中に光のように差し込んできました。一体どうなったでしょう。年長者たちからはじめて一人一人がその現場からそっと立ち去って行ったんです。自分もまた、罪人だということがわかったからです。

エルサレムの宝石店

 私は数年前、イスラエルという国に行きました。そしてエルサレムの宝石店に入ったんです。家で留守番をしている家内のためにお土産を買おうと思ったんですね。ところが、店の主人が持ってくるのは、何十万円も百数十万円もする品物ばっかりなんですね。しかし、私の予算は一万円だったんです。すごい値段の宝石はすごい輝いています。しかし、それらは私には絶対に手の届かない品物なんです。

罪人だとわかった人こそキリストに近寄る必要がある

 「確かにきれいだ。でも、私とは別世界だ。」という現実を見せつけられるとき、心の中は穏やかではありません。惨めなんです。
 時に聖書のメッセージは、私たちを励ますものではなく、打ちのめすものになります。そして、惨めな気分にするんです。「確かに聖書が言っていることは正しい、きよいその通りだ。しかし、私にはそれを実行する力がない」と思い知らされるので、読むことによってかえって惨めになるんです。「あなたがたの中で罪のないものが最初に石を投げよ」というキリストのみことばも、私の心を突き刺すことばです。私は今まで、姦淫したことは一回もありません。しかし、性的な誘惑は毎日感じています。自分の中に汚い思いがとぐろを巻いていることに慄然とするのです。そして、キリストの語ることばが、正しければ正しいほど、いたたまれなくなってくるんです。自分の醜さが際立たせられてくるからです。しかし、自分が罪人だとわかった人こそは、キリストから逃げ出さず、キリストに近寄る必要があるんです。なぜなら、キリストは、罪人を裁くためではなく、救うために来て下さったからです。

赦しを宣言するキリスト

 イエスは、彼女に聞きました。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定めるものはなかったのですか。」彼女は言いました。「誰もいません。」そこでイエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と。
 なぜキリストは彼女を罪に定めないと宣言することが出来たんでしょう。罪を大目に見たんでしょうか。或いは、見て見ぬふりをしたのでしょうか。そうではありませんね。この彼女の罪は死罪にあたるんです。但しその死罪という罰をキリストが彼女に代わって引き受けて下さるからこそ赦しを宣言することが出来たのです。

お金に困っていた青年

 就職して間もなかったときのことです。ある地方から進学のために出てきた青年が、お金に困っていました。アパートの家賃を払っただけでろくにいいものも食べることが出来なかったんです。ましてや大学のテキストまではとても手が出ません。それで私は彼にいくらかを貸したのです。彼は本当に喜んでくれたんですね。そして、次のバイト代が入ったら、必ず返しますからと言うんです。しかし、急な入り用があったんでしょう。その日になってもお金は返ってきませんでした。事情を聞いていた私は、「いつでもいいよ。気にすんなよ。」という風に言ったんです。そしてそれは本気でそういったんです。
 ところが、次の次の次のバイト代の日にもやっぱりお金が返ってこなかったんですね。でも困っているときはお互いさまです。彼は返すつもりがなくて返さないのではなく、返せないので返さないんです。私は一切催促しませんでした。ところが、やがて彼は私を避けるようになっていったんです。目を見て話が出来なくなりました。私に対しておびえています。その内に不愉快そうな表情を浮かべるようになったんです。

とがめがもたらすもの

 私はとうとう彼を呼び止めて言いました。「どないしたんや。俺は何とも思ってないんやぞ。」でも高原さんは僕をにらんだじゃないか。皆さんにらんでません。しかし、彼の心の中の想像上の私が、彼をにらんだのです。これがとがめがもたらすものなんですね。

キリストによってあなたを赦す神

 神様はキリストによって、あなたを赦すことが出来るんです。キリストによって赦された人に対して、神は「婦人よ。」と尊敬語で呼びかけて下さるんです。どうぞ、責められる自分の心の叫びにではなく、赦しに満ちたキリストのみことばに耳を傾け、この救いを受けて下さい。心からお勧めしたいと思います。



国分友里恵:赦しがなければ
新約聖書 ヨハネの福音書8:10〜11
 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」