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Bible & Gospel

No.470 2009年03月29日「悔い改めを呼び起こすキリストの福音」

おはようございます、高原剛一郎です

 私は学生時代友人たちと3人でヒッチハイクをしたことがあります。はじめはそんなことをするつもり、なかったんですが、旅先で金がなくなってしまって、仕方なしに、岐阜から大阪まで乗せてもらおうとしたんです。ところが、国道に出ても、止まってくれる車はありません。そのうちに雨が降ってくる、日も暮れる、寒さでどうなるかと不安になる中で、一台の長距離トラックが止まってくれたんですね。ドライバーが「乗りなさい」と声を掛けてくれたときには、本当にうれしかったですね。人の親切が身にしみました。ところが、乗り込んだ後で「えーっ」と驚くことがあったんです。このドライバーは、酒臭かったんですね。しかも、車内にはウイスキーの小瓶が転がっているではありませんか。なんと彼は酔っぱらっているんです。

危険な人物にいのちをゆだねる不安

 ほっとしたのもつかの間、私たちはハラハラどきどき、不安でいっぱいになりました。なぜでしょう。危険な人物に自分たちのいのちをゆだねることになったからです。危なっかしい人に自分の運命を任せなければならなくなったからですね。もしかしたら失敗するかもしれない人に、人生を任せると言うことは不安なことではないでしょうか。
 ところで多くの人は安心を得るために財産を殖やしたり、資格を持ったり、占い師の言うことにすがったりしますが、どれもみんな永遠のものではありませんね。この世の中にあるものはみな、今日あっても明日はなくなってしまうようなものばかりですね。しかし、キリストは何があっても揺るがない方です。今日この天地が滅びても決して滅びることがないと言われたキリストのことばを紹介したいと思います。
 聖書にこう書いてあります。
 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

悔い改めって何でしょうか

 キリストは30才になったとき、公に人々に語り始めました。その第一声は「悔い改めなさい」と言うことだったんです。ところで、悔い改めって何でしょうか。
 ギリシャ語では「メタノイヤー」ということばです。これは、考えを変えるという意味なんですね。自己中心の考えを、神中心の世界観と入れ替えることです。

 ある女子高生が大事にしていた新しい自転車を盗まれてしまいました。警察に届けましたが、みんなはあきらめるより他仕方がないと言ってたんですね。しかし、彼女はあきらめませんでした。近くの駅という駅を巡り歩いて、乗り捨てられていないか探し続けたんです。そうして、一月ほどしたとき、とうとう彼女は愛車を見つけたんですね。ところが、その自転車は今や別の人のものとなってたんです。どうしてそれが自分のものだとわかったんでしょう。名前が削り取られていたのですが、その削られた跡形がはっきりと自分の名前なんですね。彼女はその自転車を取り戻そうとするんですが、鍵がかかっていて移動できません。そこへ今の所有者がやってきたんです。ずいぶん派手ないでたちの同じ年ぐらいの女の子ですが、しかし全く悪びれることなく、「人の自転車勝手にさわるな」と言ったそうです。「いいえ、これはあなたの自転車じゃない私の自転車です。」「いい加減なこと言わないで」押し問答になったんですが、「警察を呼ぶ」と言ったとたん相手は彼女を突き飛ばして逃げていったと言うんですね。ま、彼女はようやく自転車を取り戻すことが出来たんですが、後で思い出すととても腹が立ってきたそうです。盗んでおきながら、ふてぶてしくもこちらを泥棒呼ばわりしたからです。

主権を認めない生き方は泥棒の人生

 ところで、本当の所有者に対して、あくまで自己主張し、まるで本当の所有者はこちらであるかのように、振る舞うということが、厚かましいことであるとするなら、この世界の本当の所有者であり、造り主である神さまを無視して、まるでこの世界も人生も元々はじめから自分のものであるかのように考える生き方は、もっと厚かましいことだということが出来るのではないでしょうか。
 この宇宙も、地球も、空気も、水も、エネルギーも一体誰のものでしょう。それをお造りになった神のもの、この世界をお造りになった創造主のものです。創造主こそこの世界のオーナーなのです。ところが、このオーナーを無視して、神などいないかのような人生観で生きてきたのが私たちではないでしょうか。その考えを変えることを悔い改めっていうんですね。神のために存在しているものを自分のために存在しているという考えを捨てることです。この世界は、神の作品であり、私たちはそれを一時的にレンタルしているのに過ぎないのです。レンタルしているものに自分の名前を書き込んで私物化してしまうなら、それは泥棒です。神さまの主権を認めない生き方は、泥棒の人生なんですね。そして、人生における多くの混乱は、自分を世界のオーナーであるかのように振る舞うことによって、起こるんですね。

悔い改めのもう一つの意味

 さて、悔い改めという言葉にはもう一つの意味があります。ヘブライ語では「テシュバー」って言うんですね。これは方向転換という意味です。今まで創造主に背中を向けて生きてきたあり方をやめ、神という原点に顔を向け立ち返ると言うこと、180度向きを変えると言うことなんですね。

犯罪者のいいわけ

 私は先日世界中の犯罪者のいいわけを集めている人の話を聞きました。自転車を盗んだ犯人のいいわけは、「でもそのおかげで祖父の死に目に会えたんだ。」酒気帯び運転前科3犯の人のいいわけは、「俺みたいな人間は逮捕されないとだめなんだ。」スピード違反で捕まった男は、「運転中くしゃみをしたら思わずアクセルを踏んでしまった。だから一番悪いのは、杉花粉だ。」とにかくどんなことでもいいわけってすること出来るんですね。捕まったときに素直にごめんなさいという人はまずいません。何らかのいいわけを言っちゃうんですね。

愛されているのだから悔い改める

 でもなぜいいわけするんでしょう。そのままでは赦されないと思っているからです。ただで赦してもらえるわけがない。だからいいわけをして少しでも軽くしてもらおうと言うことなんですね。しかし、キリストが悔い改めを語られたのには理由があります。「あなたのために天の御国が近づいた。あなたがたの赦しのために、あなたがたに代わってすべてを成し遂げて下さるキリストがやってきた。だから、悔い改めなさい。」というんです。悔い改めたら愛してあげるというのではありません。愛されているのだからその愛にふさわしく応えていくために悔い改めようじゃないか。赦しがあるのだから、隠れたり、逃げたりしないで、悔い改めて救いを取りに行こうじゃないか。解決があるのだから、問題を隠す必要はもうない。明らかにしようじゃないかと招いて下さっているんですね。

悔い改めの勇気を持つ

 あなたを受け入れる準備をすべて完了した上で、あなたを招いているキリストに立ち返ろうではありませんか。人は赦していただくことが出来るからこそ、悔い改めの勇気を持つことが出来るんです。どうぞあなたもこの赦しの救い主イエス・キリストに立ち返って下さい。心からお勧めしたいと思います。



ともみ:約束
新約聖書 マタイの福音書4:17
 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」