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Bible & Gospel

No.469 2009年03月22日「勇気の源イエス・キリスト」

おはようございます、高原剛一郎です

 私が小学生の頃、ウイスキーのコマーシャルに「生きるべきか死ぬべきか、それが問題である。」というのがありました。何度もテレビで流れたせいでしょうか。これが学校の中で随分はやったんです。みんなおもしろがって、よく使っていました。生きるか死ぬかを問題にするなんて、その頃は馬鹿馬鹿しい悩みだと思っていたからです。しかし、後になって、これがハムレットの一節であると知りました。

デンマーク王子ハムレット

 デンマーク王子のハムレットは自分の叔父が父親を毒殺して、国王になり、母親と再婚したという真相を知るようになります。そのとき、彼は悩み始めるんですね。「このような非道を知りながら、それに耐えて生きるべきか、或いは叔父を殺して自らも死ぬべきか、それが問題だ」っていったんですね。ハムレット王子にも幸せな少年時代があったに違いありません。しかし、信頼できたはずのものが信頼出来ないものだったとわかってからは、人生を続けるのかどうかが悩みとなっていったんです。

信用できるものがない

 信じれるものが世の中に一つもない。これは人生を息苦しくするものであるに違いありません。そして、今の日本の空気は、何か息苦しいものとなっているんじゃないでしょうか。その原因は信用できるものがないということではありませんか。

年金も保険も会社も信用できない

 年金掛けても払ってくれるかどうか信用できない。事故になっても掛けていた保険が下りるとは限らない。ついこの間まで史上最高の収益を上げていた大企業も、今やいつ社員をリストラするかわからない。そういう信頼が裏切られるという経験を繰り返しているうちに、信じることが愚かしいことのように思うようになっているんじゃないでしょうか。

不安って一体何でしょう

 ところで不安って一体何でしょう。ある心理学者はこういいました。「不安とは、未来の出来事を予測し、その下準備をすることで生じる興奮である。」と。

何年も失敗している受験生は不安です

 たとえば、何年も失敗している受験生は、不安ですね。それは、自分は今年も落ちるんじゃないか。もし落ちたらどうしようと、まだ落ちてもいないときから、落ちたときのことを考え、その下準備をするからです。下準備といっても、そうならないようにもっと気合いを入れて勉強するというような前向きな準備ではありません。「落ちたらこうなる、こうなるとそうなる、そうなると最後はめちゃくちゃになるという風に、悲惨きわまりないストーリーを描いて、そんな恐ろしいことが起こる前に、いっそのこと死んだ方がましだ」というような下準備に考えが行くんです。

不安は誰にでも起こること

 そういう風に破滅的な結末を心の中に描いて、その実現に向けて自分が近づいているんだと思うと興奮します。動悸が激しくなります。体もこわばります。息も苦しくなります。それで何とかこの興奮を打ち消そうとして、膨大な心のエネルギーを使い切ってしまうんですね。ですから、くたくたになるんです。疲れ果ててしまいます。それで前向きに立ち上がる気力も失せてしまうんですね。そして、これは誰にでも起こることだと思うんです。

向上心の強い人は不安になることが多い

 しかし、一般的に向上心の強い人、よりよく生きようと願う願いが豊かな人ほど、不安になることが多いんですね。なぜなら、理想が高ければ高いほど、そうでなかったらどうしようという不安も深くなっていくからです。もし今、不安でいっぱいの方がいらしたら、その方はそれだけ向上心の強い人、理想の高い人、よりよく生きたいという願いの強い方だともいえるんですね。

最大の原因は実は自分の中にある

 ところで、理想の高い人はどうして不安に打たれることが多いんでしょう。最大の原因は、自分の中にあるんです。実は理想的に生きたいと願っている本人の中に、その理想を裏切る性質が宿っているということを発見するからです。正直に生きたいと思っているのにいざというとき、嘘をついてしまう。愛を実践していきたいと願っているのに、つい冷たいことをいってしまう。そして言ってしまった後で、自己嫌悪に陥るんです。実は世の中が信じられないので、不安があると言うより、自分の中に破壊的なものがあるので、不安になるんですね。

人間の内側にある破壊的性質を罪という

 聖書はこの人間の内側にある破壊的性質を罪と言っています。正しいことをしているのにそれが出来ず、悪いとわかっているのに、それをやめることが出来ない力です。そして、自分でもいやになる行為を繰り返し続けていると、自分の存在そのものまでもが、いやになってしまうんです。こんないやなやつ消えてしまえとか、いなくなってしまえという考えがわいてくるんですね。このいなくなってしまえという声に抵抗して生きることを「勇気」というんです。そして、そのような勇気は自分で作り出すことは出来ません。この自分の虚無を飲み込んでしまうような、より強力な力とつながる必要があるんです。

罪を完全に処分したキリスト

 たとえ自分が情けなく卑怯者で愚かで罪人の頭であったとしても、それでも自分という存在を肯定せしめる勇気は、一体どこから来るんでしょう。そんな自分の罪を完全に処分したキリストからやってくるんです。そんな自分の卑怯な生き方を新しくすることの出来るキリストから来るんです。

 聖書はこういっています。
 「私はこう確信しています。死もいのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは出来ません。」

どんな卑怯者でもキリストは見捨てない

 たとえあなたがひどい卑怯者で、過去に取り返しのつかない馬鹿なことをやった人であったとしても、キリストはあなたを見捨ててはいません。なぜなら、あなたがそんなことをしでかすと知った上で、あなたの罪を背負って、十字架に架かり、あなたの罪の罰をあなたに変わって受けて下さった方であるからです。

愚かさがキリストの愛から離れる理由にならない

 あなたの愚かさも、あなたの過去も、あなたの弱さも、キリストの愛が離れてしまう理由にはならないのです。キリストは、そんなことは百も承知で、あなたのためにいのちを投げ出して下さったのです。

「生きる勇気」という本

 「生きる勇気」という本を書いたテーリッヒと言う人は、その中でデューラーという人の絵を紹介しています。それは宗教改革の精神をあらわしているそうです。武具をまとった一人の騎士が、馬にまたがっている。一方からは死が、他方からは悪魔がつきまとう。しかし、騎士は恐れることなく、注意を集中し、信頼を持って前方を見つめている。彼はたった一人だが、孤独ではない。彼はたった一人ではあるが、ある力にあずかっているのである。自分の存在を否定するようなものに取り囲まれているにもかかわらず、なお彼自身を肯定せしめる勇気を彼に与えるその力にあずかっているのである。難しい文章なんですけれど、要するにこの騎士はキリストを見つめているんです。

完全勝利したキリストが勇気の源

 自分を滅ぼそうとするすべての虚無に、完全勝利したキリストが、彼の先頭に立って歩んで下さっている。それを信じているんですね。これが勇気の源なのです。あなたのためにいのちをかけて、死んで、三日目に復活した方につながること。この方から目を反らさないこと。この方を仰ぎ続けること。これが勇気の源泉なのです。どうぞあなたも勇気の主イエス・キリストを信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。



ノア:信じます
新約聖書 ローマ人への手紙8:38-39
 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。