No.467 2009年03月08日 「永遠の世界に備える」
おはようございます、高原剛一郎です
私は先日、交通事故の分析をしているレポートを読みました。事故の当事者達の年齢を調べると、一つはっきりした傾向があるって言うんですね。それは、老人と若者の間で起きる事故が圧倒的に多いと言うことです。老人同士の事故や、若者同士の事故はそれほど多くないんですね。どうして老人と若者がぶつかり合ってしまうんでしょうか。
老人は視野が狭い
第一に、老人は視野が狭くなってるんです。ところが若者は、自分が運転する車が当然相手には見えているというつもりで運転しています。それがお年寄りのドライバーには、今まで存在してないはずの車が突然姿を現したかのように感じるんですね。
老人は車間距離が長くなる
第二に、老人になればなるほど車間距離が、長くなるんです。しかしその距離は若者にとっては、長すぎる距離なんですね。当然割り込めると考えて、追い抜こうとします。突然目の前にわって入った車にビックリしたご老人は、急ブレーキをかけますね。そして後ろの車に追突されるというパターンが多いんです。
老人は反射能力が遅くなる
第三に、老人と若者では、反応する時間が違うのです。年老いてくると、反射能力は遅くなるんですね。そしてこれは、命取りです。というのは、時速60キロで走っている車も、たった2秒間で33メートルも進んでしまうからです。年老いた人の動作は、若者の常識をかけ離れているのです。その結果、老人と若者との事故が頻発するんだっていうんですね。
自分以外の見落としている世界を知ること
一体どうしたら良いんでしょうか。自分の見え方がすべてではないと知ることだそうです。そして、自分以外の世界を知ることです。自分の見え方が世界の標準ではないと知ること、自分が見えていない世界を知ると言うことが大惨事を避ける知恵なのです。ところで、聖書は普段私たちが見落としている世界、いやすっかり忘れている世界を、思い出させてくれる本です。私たちがすっかり見失っているけれども、現実に存在する別の世界とは、なんでしょう。それは、死後に始まる永遠の世界です。
この世の価値観は変わっていく
私の尊敬しているクリスチャンのドクターに、ジェームズ・ドブソンという人がいます。アメリカで多くの家族問題について教えている方です。この方が主催する教育センターが、アメリカのコロラドスプリングスというところにあるんですが、私はそこへ行って興味深い話を伺ったんでした。実は彼は大学時代硬式テニスの名プレーヤーとして名をはせていたそうです。ある年の大学選手権大会で、彼は見事優勝したのです。これは彼の所属していた大学にとっても、とても誉れあることでした。それで優勝トロフィーは、彼の自宅ではなく、大学のロビーに飾られることになったのです。彼も又喜んでそのトロフィーを寄贈したんですね。
ゴミ捨て場にトロフィーが
ところが、それから10年ほど経ったある日のこと、ある方がこのトロフィーを彼の自宅に送ってきたんです。一体何があったんでしょう。実は大学の校舎を大規模に改修する工事があったんです。その時、この際無駄な物、不用な物は一括処分されることになったんです。そして、彼のトロフィーも例外ではありませんでした。実はこのトロフィーは大学のゴミ捨て場に転がっていたのを親切な人が拾い上げて、持ち主である彼に送って下さったものだったんです。本人にとってはこの上もなく価値があり、素晴らしい物でも10年後の世代にとっては場所ばかり取る邪魔者でしかなかったと言うんです。そして、それがこの世の特徴ではないでしょうか。
今、チヤホヤされていても、すぐに忘れられるんですね。今日もてはやされていても、時代が変わればゴミ扱いです。そんなこの世で一生懸命評価されることにやきもきするより、もっと大切なことがあります。それは、永遠の世界で評価されることに人生を使うことです。永遠の世界でも価値を失わないようなことにたった一度きりの人生を使うことなのです。
重要な二つの試験問題
聖書によると人は死んだ後、神の前に立たされます。そしてそこで、自分の人生の言い開きをすることが定まっていると書いています。そこであなたの永遠を過ごす世界が決まるのです。すなわち、永遠の天国か永遠の地獄かのいずれかが決定されるのです。そして私たちがこの審判の席で、永遠の天国に行けるように神は予めどういう質問をなさるかを聖書の中で教えて下さっているんです。永遠が決定する試験の前に、試験問題を前もって教えて下さっているんです。それは、何としてもあなたがこの試験に合格することを神が願っておられるからです。質問は二つです。
キリストに対してどういう態度を取りましたか
第一の質問はこうです。「あなたはあなたの罪を償うために十字架に架かって命を捨て、三日目に復活したイエス・キリストに対してどういう態度を取りましたか。」という質問です。この質問は重要です。なぜならキリストはこうおっしゃったのです。「わたしが道であり、真理であり、いのりなのです。だれでもわたしを通してでなければ、父のみもとに行くことはできません。」と。何故キリストだけがあなたの救い主なのでしょう。キリストだけがあなたの罪を処分して下さった方だからです。キリストだけがあなたの罪を保証するために死からよみがえって下さった方だからです。キリスト以外にあなたのために死んでよみがえった方はどこにもいません。この方を救い主として信じる者は誰でも天国に入るんです。
神が与えたものをどのように使いましたか
第二の質問はこうです。「あなたは神が与えた良き財産、良き人生、良きチャンスをどのように使いましたか。何のために使いましたか。」ということです。これは、信じたクリスチャンへの質問です。
エーリッヒ・フロムの所有思考と存在思考
さて、ユダヤ人の社会思想家の中に、エーリッヒ・フロムという方がいます。彼は持つべきか有るべきかという本の中で、二つの生き方を紹介しています。所有思考的生き方と存在思考的生き方です。所有思考の人は自分が何を持ったか、どれだけ獲得したか、どこまで達成したかを基準にして、自分の人生の成功失敗を計ります。
ところが存在思考の人はそんなことはみんな目的じゃなく、人格成長のための手段だと見なします。存在思考の人にとって大事なことは、所有することではなく、存在することです。どれだけ持ったかではなく、如何に存在したかです。この人たちの目的は、人生の中でどれだけうまくいったか、ではなくそれらを通して自分が人間としてどれだけ深められていったかということです。この人生観に立つ人には、失敗はありません。なぜなら、結果がどうであれ、すべてが有益な人生経験になるということを信じて生きているからです。そして、そのように生きている人こそは、息長く最も多くのことを成し遂げていくことが多いのです。
神との関係
聖書の中にこういうことばがあります。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それはだた公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」 対人関係においては、公義の実行、対自分関係においては誠実の追求、そしてそれらを可能にするのは、神との関係においてキリストによって結ばれることなんですね。どうぞあなたも最高に祝福されたキリストにある人生の中に入って下さい。心からお勧めしたいと思います。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。