世界中どこでも、いつでもラジオ関西「聖書と福音」の聖書メッセージが聴ける(Web Radio) ウェビオ

Bible & Gospel

No.466 2009年03月01日  「身代わりとなった救い主」

おはようございます、高原剛一郎です

 さて、もうすぐひな祭りがやってきます。私の知っている方で、60年も70年も前にご両親に買ってもらったひな人形を、毎年きれいに飾り付けている方が何人かいらっしゃいます。少女時代の思い出がその人形にいっぱいつまっているんだなあとほほえましく思います。

ひな人形の由来

 ところで、このひな人形には由来があるんですね。実は昔の日本人は、自分の罪、咎、災難をぬぐい去るためには、自分に代わってその災いを引き受けてくれるものが必要だと考えたのです。そして、自分の雛型として人形を作り、その上に自分の醜いものを乗り移らせて川や海に流したんですね。この人形が紙びなになり、紙びなが後の精巧なひな人形になります。そして寛永6年、明星天皇という女帝が即位された3月3日にひな祭りを行うようになったという風に言われているんですね。「ひな人形とは、自分の罪の身代わり人形だった。」と言うんです。

聖書が教える身代わりによる罪の償い

 さて、聖書を託されたユダヤ民族には、この身代わりによる罪の償いがもっと鮮明な形で教えられていました。昔、ユダヤ人たちは、罪を犯す度に、いけにえとなる動物を神殿に連れて行ったんです。そして、その動物をほふる前に必ずしたある動作があるんですね。それはその動物の上に、手を置くということでした。この手を置くという動作は、一つである、一体となるという意味があります。そして、自分の罪はこの一体となった、自分が手を置いた動物に転嫁した、乗り移ったという意味があるんです。その動物はそれを神殿に連れて行った本人が殺すんです。物言わぬ動物とはいえ、何の落ち度もない命が自分の罪のために失われていくとき、きっと厳粛な気持ちになったと思います。しかし、如何に厳かな気持ちになっても、紙で作った人形や動物の血には人間の罪を購う力はないんですね。人間の身代わりは、人間でなければなりませんでした。しかも、罪のない人間でなければならなかったのです。この罪なき人にして、罪人の購い主となるために来て下さった方こそは、イエス・キリストなのです。聖書はこう言っています。

 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」

国境という鉄のカーテン

 私は以前北朝鮮から脱出して、韓国でクリスチャンになった方の証しを聞いたことがあります。脱出した後で彼は結婚し、幸せな家庭を築かれました。しかし、今の自分の生活が、申し分ないものであればあるほど、素晴らしいものであればあるほど、彼の心は晴れなかったのです。何故でしょう。自分の肉親家族達は、北朝鮮に残されていたからです。韓国には繁栄があります。物が溢れています。そして、何より自由があるんです。出来ることなら自分の愛する家族は、一人残らずこちらの自由圏に連れ出したいのです。そして、北朝鮮に残された家族達も突然消息を絶った自分のことをきっと心配しているに違いないんですね。彼は、再会を熱望し、家族もそれを渇望しています。しかし、それは出来ないんです。なぜなら彼らの間には国境という鉄のカーテンがあるからです。

罪という鉄のカーテン

 それと同じことが、神と人間の関係についても言えるんですね。神とはあなたの造り主です。あなたを設計し、あなたに人格を与え、あなたに目的と意味を与える作者なる方です。そしてこの神さまはあなたに祝福を与えたいんです。しかし、その祝福が完全な意味であなたに及ぶことはありません。なぜなら神とあなたとの間に、罪という鉄のカーテンが降りているからなのです。罪という遮蔽物が神とあなたの間に立ちはだかっているので、神さまの祝福があなたの所まで届かないのです。

罪とは何でしょう

 ところで、罪とは何でしょう。いわゆる一般的に言う犯罪と違う点と似ている点があるんですね。違う点とは何でしょう。聖書が言っている根本的な罪というのは、法律を破ることではなく、自分の造り主を無視して生きることを指しています。自分の命のルーツから離れて生きることです。世界の中心を心の中から追放して生きること、これを罪と言います。

 では、犯罪と似ている点とは何でしょう。それは罰を受け終えるまでは、いつまでも追求の手が及ぶという点なんです。罪は罰を受けきって償いを果たし終えるまでは、逃れることが出来ないものなのです。ですから、キリストがあなたの罪の身代わりとなってあの十字架にかかって罰を受けて下さったて言うんですね。

6回のでっち上げ裁判

 キリストは十字架にかかる前、全部で6回の裁判を受けました。どんな温厚な人でも、思わず言い返したくなるようなメチャクチャなでっち上げ裁判でしたが、しかし、キリストは反論なさらなかったのです。その裁判では、判決がおりる前にいのちの危機に至るようなリンチが、これでもかこれでもかと加えられました。しかし、キリストは黙ってそれを受けられました。動物の鋭利な骨が先端についた鞭で、何十回も背中を打たれました。その結果、筋肉がえぐれて畑の畝溝のようになりました。しかし、その時ですら、叫び声をあげることなく、キリストはこらえておられたのです。

神から完全に見捨てられたキリスト

 やがて、両手両足に太い釘が打ち込まれて十字架に磔にされました。すべての体重が三点に集中し、全身に激痛が走りましたが、その時ですら、一言も語られませんでした。しかし、十字架に上げられて6時間経ったとき、全地が暗闇に包まれる中でキリストは絶叫されたのです。その叫びはこうでした。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」それまでどんな苦痛を加えられても沈黙を通していたキリストが、なぜこの時ばかりは大声をあげたんでしょうか。それは、この瞬間、あなたと私の罪がこの方の上に置かれ、神から完全に見捨てられたからです。

神から見捨てられるという最大の苦しみ

 十字架に釘づけられたキリストにとって、最大の苦しみは鞭打たれることでもなく、釘で刺し連ねることでもなく、肉体の死を経験することですらもなかったのです。最大の苦しみは、神から完全に捨てられるということだったのです。そして、この状態を地獄というのです。この状態を大声をあげて明らかにすることによって、誰もここに来てはならないという宣言を私たちにも語っておられるのです。この瞬間、正しい方が、悪い人々の身代わりとなったというみことばが実現したのです。しかし、聖書はこのキリストが死んだまま終わらなかったと言います。なぜなら、霊において生かされたと書いてあるからです。これは、神の霊である聖霊によって、生かされた、復活したという意味なのです。キリストは復活によって死を滅ぼした勝利者です。一体何のために復活なさったんでしょう。私たちを神の御許に導くためでした。と書いてあります。

あなたのために祈り応援しておられる方

 今日、あなたがキリストを信じる決心をなさるよう、キリストは天国であなたのために祈り、そして、応援しておられる方です。よみがえったキリストは今、生きてあなたの心の中にあるすべてをご存じです。どうぞ、このキリストを信頼して心の中に迎え入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。



国分友里恵:この日も恵みを
新約聖書 1ペテロの手紙3:18
 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。