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Bible & Gospel

No.464 2009年02月15日「不条理な事件をどう考えるか」

おはようございます、高原剛一郎です

 私は先日、ローマの休日という映画のDVDを英語テキストとして鑑賞しました。主演はオードリー・ペップバーンですが、いや、魅力的な人ですね。彼女の晩年、ある方が質問したそうです。「どうしたら美しく魅力的な人になれますか。」彼女の答えはこうです。「美しい唇でありたいなら、美しいことばを使うことだと思います。美しい瞳でありたいなら、人の美点を探すことだと思います。」
 確かにどんな美人でも他人の悪口ばっかりをしゃべり続け、欠点ばかりあら探しするなら、きれいではあっても魅力的とは言えないと思います。逆に人の良い面を一生懸命見つけ出そうとして努力する人は皆に好かれると思います。誰もが良い面を見つけ出されたいと心の中で願っているからです。

不条理極まりない悲惨なことはなぜ起こるんだろう

 ところが、この世の中にはどんなに良い面を見つけようとしても、不可能な事件や災害が、時として起こることがありますね。そして、そのような不条理極まりないトラブルを考えると「どうしてこんなことがおこるんだろう。もし全知全能にして最善のみを行う神さまがいるなら、どうしてこんなにも悲惨なことが起こるんだろう」と考え込まずにはおれなくなります。

不条理の背後に悪魔が存在する

 私は先日とても真面目に人生を考える方からそのような質問をお受けしました。「神さまが全能の主権者で愛する方、愛なる方であるなら、どうしてむごたらしい事件が横行するんでしょう。」
 第一に、悪魔がいるからです。聖書によるとこの世界をお造りになった目に見えない神に対して反逆し、人間を悪へと後押しする霊的な存在があると言うんですね。それを聖書は悪魔と呼んでいます。ヘブライ語ではサタンを言います。これは、人間の空想の産物ではありません。本当にそう言う存在があるのです。

悪魔がささやいたとしか思えない

 精神かのドクターにして作家でもある加賀乙彦さんによると、心弱った人間の背中を後ろからぽんと押すものがいるように思えてならないというんですね。彼は沢山の死刑囚との面談を繰り返してきたドクターです。彼の専門は犯罪心理学です。面接した死刑囚や自殺未遂者の口から出てくるのは、異口同音に「あの時は悪魔がささやいたんです。」とか「どうしてあんなことをしでかしたのか。いや出来たのか。自分でも分からない。何だか自分ではないものの意志によって動かされたような気がする。本当に悪魔に囁かれたとしか思えません。」ということだそうです。

ドストエフスキーの代表作「悪霊」

 最近、ドストエフスキーの新しい翻訳が出て、随分評判になっているようですが、彼の代表作の一つに「悪霊」というのがあります。その第1ページ目に新約聖書の記事が登場するんですね。悪の霊にとりつかれて墓場に住み着いている男の話です。
 彼は朝から晩まで、大声で叫び続け、つながれている鎖を引きちぎるんですね。そこへイエスがやってきて、彼から悪霊を追い出すと今度は二千匹ほどの豚に乗り移るんです。豚は一斉に湖になだれ落ちておぼれしんでしまうという記事なんですね。ドストエフスキーの小説では、ピョートルという男があることを人々に吹き込むんです。すると聞いていた人々は、みんな異様な行動を取るようになるんです。一体何を吹き込んだんでしょう。テロリズムです。一人の男から出た悪霊が何千という豚を死に駆り立てていったように、ピョートルの口から出た破滅的思想が、悪霊のように人々の心の中に入り込んで、あっという間に広がって行く様子が描かれているんです。今、世界中で自爆テロとか誘拐ビジネスが蔓延していますけれど、どんな理屈が他人の命を奪うことを正当化できるんでしょう。出来るわけがないんですね。無茶苦茶な思想に動かされている人々が、何十万、何百万といるんです。まるで何かに操られているようです。

混乱と不条理の原因は人間の罪

 第二に、人間が罪人であるからです。混乱と不条理の原因は、人間の内側にあるのです。聖書の中に、誰でも誘惑に会ったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分で誰をも誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれおびき寄せられて誘惑されるのです。とあるからです。動物の世界にも生存のために、同族いじめや子殺しがないわけではないんですね。しかし、人間の場合は、生活に困ってとか、生存のための攻撃ではなく、ただ殺すための殺しや、楽しみとしてのいじめ、というのがあるんです。はっきり言って、人の心には、残虐性や殺人への願望が隠れているんです。そしてそれは特定の人にだけではなく、すべての人の心の中に根を張っているのだと聖書は語るのです。

神への詰問をやめて神に問われている問題として見ること

 第三に、神を詰問するのをやめて、神に問われている問題として見るということが大事なんです。信じがたい悲惨な事件のとき、「神よ。なぜですか。」と問うのを止めることです。なぜならその悪に対して、あなた以上に怒り、うめき、痛んでいるのは神だからです。その被害者のそばにたたずみ、共に苦しみ嘆いているのは、その人をお造りになった神です。ですから、神に「なぜなんですか」と問うのではなく、神から「今あなたの出来ることは何か」と問われていると受け止めるべきなのです。この現状を目の当たりにしてあなたに出来ることは何か。このようなことが再発しないために、今あなたが期待されていることは何かを自分に問うことなのです。そして、神はこのような最悪の事態ですらも、必ず最善を生み出すために用い、変えていくことが出来ると信じることです。

最悪が最善のために用いられたという前例がある

 どうして、最悪が最善のために用いられるなんて、そんな甘ったるいことを信じることが出来るんでしょう。前例があるからです。人類史上最低最悪の事件は、イエス・キリストの十字架でした。人となった神であるキリストを当時の人々は、よってたかってなぶりものにし、拷問にかけ、裸に下上で、あざけり倒しながら十字架にかけて、殺したのです。キリストの親切を馬鹿にし、キリストの赦しを笑い飛ばし、キリストの生涯を踏みにじりました。これ以上にひどい間違い、不当な裁判、めちゃくちゃな反逆はありませんでした。しかし、この十字架の上のキリストの死こそは、全人類の罪を償う神の救済方法となったのです。人間のしでかした最悪の事件を、人間が神から受け取ることの出来る最上の、最高の賜物に変えてしまったんです。そのように変えたのは、神です。そしてこの神は、悪魔を打ち砕く神なのです。聖書はこう言っています。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」最悪を死の克服という最善へと変えた神のみわざをここに見ることができるのです。

宇宙人信じますか

 私は時々「高原さんはキリストを信じているんですね。では宇宙人信じてますか。」と聞かれることがあるんですね。しかし、私はキリストを信じることと、宇宙人を信じることを同列で聞かれることに抵抗があるんです。というのは、「宇宙人信じますか」というとき、宇宙人がいるかどうかを聞いているんでしょうね。この場合の信じるというのは、存在の有無です。そして、宇宙人がいたとしてもいないとしても、私の人生に何の変化も起きないんです。しかし、キリストを信じるというのは、単にキリストがいたかどうかを信じるんじゃないんです。これからの私の人生を導き、最悪も最善に変え、罪を赦し、天国に行くまで自分を任せていくに足る方だと信じることなんです。どうぞ、キリストを信じて下さい。心からお勧めします。



工藤篤子:ビア・ドロローサ
新約聖書 使徒の働き2:23-24
 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。