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Bible & Gospel

No.461  2009年01月25日   「キリストの犠牲による罪人の救い」

おはようございます、高原剛一郎です

 ところで、最近の経済新聞を見ると、景気が悪いという話ばかりが伝えられていますね。ある本によると、設立した会社が一年後に存続している率は60%だそうです。3年後は40%、5年後は15%、10年後は5%、30年後は2%、50年後は0.7%、100年後は0.03%、つまり今あっても100年後まで残っている会社はたった0.03%なんだというんですね。ならば500年残る会社となると、それは奇跡に近い存在だと思います。そんな会社が日本にあるんですね。

和菓子の老舗「とらや」

 和菓子の老舗「とらや」です。ここは、創業500年もの間、事業を続けているって言うんですね。室町時代から21世紀まで営業を続けることが出来た秘訣はなんでしょう。社長の黒川さんはこのようにおっしゃっています。「変えるものと変えてはいけないものをはっきりさせてきたことです。」と。変えてはいけないものって何でしょう。当然、伝統の味だと思うんですね。ところが、味は変えてしかるべきだっておっしゃるんです。味覚というのは、ライフスタイルが変わると変わっていくからです。では、変えてはいけないものとは何でしょう。それは、お客さんへの感謝の心だと言うんですね。会社というのは、お客さんあっての存在です。世の中がどんなに変わってもお客さんがいる限り、また、ついてる限りは大丈夫です。しかし、お客さんとの関係が切れて、そっぽ向かれたら、500年の看板も消し飛んでしまうんですね。会社はお客さんによって養われているんだから、お客さんを何とも思わなくなったら、すぐに時代に取り残されてダメになるんだとおっしゃるんですが、これは正論だと思います。そして、このことは、人間個人についても言えると思うのです。人間を養い、生かし、支え、応援して下さる存在こそは、人間が生き残って行く上で何よりも大切な存在です。このあなたを養い生かす存在こそは、天地万物の創造主である神なのです。

 この神のことばを一つ紹介致しましょう。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
 この新約聖書のことばの中に、キリストが来られた理由が書いてあります。キリストは、罪人を救うために来られた、と言うんですね。
 ところで、罪人とは、一体どんな人のことなんでしょう。特別にひどい犯罪者だけを指すんでしょうか。実は聖書によると、罪とは的外れという意味なんです。本来あるべき所から、外れて生きること、本来成すべき使い方とは異なる使い道に大切なものを使うこと、要するに目的から外れたことを罪って言うんですね。

アメリカで連続レイプ殺人事件

 今から十数年前、アメリカで連続レイプ殺人事件の犯人が捕まりました。捕まるまで人々が想像していた犯人像は、おぞましい獣のような男の姿です。しかし、捕らえてみると、犯人はIQ180を超える知的な人物だったんです。その顔立ちも知性に裏付けられた端正なものでした。彼は持ち前の頭脳を活かし、裁判の席では自らの弁護をするのですが、その論理は相当に明晰で、屁理屈だとわかっていても、思わずうなってしまうほどのものでした。しかし、何をどのように言いくるめたとしても、罪の事実は覆りません。彼は懲役300年以上の判決を受けたものと思われます。一生出てこれないんですね。その判決を下すとき、裁判官は穏やかな声で、被告人にこう語りかけたんです。「あなたは、本来なら被告席にいて自己弁護するためではなく、我々の側に立ってその頭脳を活かし他の困っている人を助ける人であったかも知れないんだ。」この一言はどんな辛口の非難よりも、彼の心を打ちのめしました。彼は、生きれたかも知れない素晴らしい人生を台無しにしてしまったことに気がついたのです。どんなに知恵があっても、間違った使い方をすれば、ただの悪知恵です。どんなに才能があっても、それを破壊的に用いるなら、その才能の豊かさが裏目に出て、一層ひどい被害を及ぼすようになるのです。

この愚かさを一言でいうなら的外れ

 本来偉大な人物になり得た彼は、どうしようもない屁理屈男で一生終えることが決まりました。この愚かさを一言でいうならば、的外れなんです。本来あるべき所から、外れたのです。罪とは何でしょう。神という目的から外れた人生を生きることなのです。その結果は滅びです。死後の裁きです。しかし、神はあなたを救い出すために、イエス・キリストを遣わして下さったのだという宣言が福音なんです。

救いとは一体何でしょう

 ところで、救いとは一体何でしょう。誰かを困った状態から助け出すことなんですね。この救いはしばしば、大変な困難を身に招くことがあるのです。

相手を救うため自らが絶体絶命になる以外にない

 丁度今日は一月の下旬でこれから、中高大学入試のシーズンですね。またこれからいろんな国家資格の試験が始まります。そして、仮にあなたが受験生だったとします。いよいよ一年間準備した受験当日を迎えます。ところが、あなたはその日、少し寝過ごしてしまったのです。でも今ならギリギリ試験会場に間に合うんですね。ところが、途中で地面にうづくまっている女性がいるではありませんか。彼女は妊婦さんで今にも赤ちゃんが生まれそうです。そして、苦しみながら、あなたに助けを求めています。あなたのポケットには携帯電話が入ってません。また、近くに公衆電話もありません。人もいません。家もありません。今彼女を助け出せるのは、あなただけです。そして、彼女を助けるためには、もう一度家に戻って119番する以外にないのです。しかし、それをすれば、試験を受けることが出来ない。このような状況に立ち至ったとき、あなたはこの見知らぬ妊婦さんを助けますか。それとも、見過ごしにしますか。人を救い出すのは、大変なことです。なぜなら、自分が大切にしているものを諦めなければならないことがあるからです。相手を絶体絶命から救い出すためには、自らが絶体絶命になる以外になくなることがあるからなのです。自分を失ってでも、相手を救い出すことが、出来ないのは何故でしょう。人間にとっては自分が一番可愛いからですね。

愛は時に自らを滅ぼす道を選び取る

 しかし、例外があるのです。人は愛によって時に自らを滅ぼす道を選び取ることがあるのです。もしその現場で、うづくまっているその妊婦さんが、見知らぬ女性ではなく、自分の姉さんだったらどうでしょう。或いは自分の娘だったら、どう思うでしょう。或いは自分の妻だったら、どのように行動するでしょうか。たとい、一年間頑張ってきたその試験がかかっていたとしても、目の前の彼女を救うために出来ることは何でもするのではありませんか。

愛は喜んで自分を捨てさせる

 愛は喜んで自分を捨てさせるのです。そして、キリストはあなたを罪の結果である永遠の裁きから救い出すために、ご自分を捨てて下さったのです。あなたの絶体絶命を自分の身に引き受けて下さったのです。あなたの死後の裁きを無効にするために、キリストは自分の命を十字架の上で、捧げて下さったのです。
 キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られたとはその意味なんですね。どうぞ、あなたのために自発的に犠牲を払い、死んで三日目に復活した生けるキリストを信じ、受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。



みぎわ:何もかも捨てて
新約聖書 ルカの福音書19:9-10
 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」