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Bible & Gospel

No.460 2009年01月18日「理想の環境より生ける救い主」

おはようございます、高原剛一郎です

 さて、いよいよアメリカでは、新しい大統領による政治がスタートします。第44代目オバマ大統領のデビューですね。彼の登場によってこの世界の紛争が一つでも少なくなることを願わずにはおれません。地球には約200の国がありますが、そのほとんど全部の国には未解決領土問題や、資源争いが絶えないからです。ところがこの地球上にたった一つだけ全く紛争のない大陸があるんですね。一体どこでしょう。

南極には国境も軍事基地もありません

 南極なんです。実は南極にはいくつもの国が基地を設立していますが、国境が無いんです。また、軍事基地もありません。1959年南極条約が締結され、軍事基地は作らない、科学観測は自由、お互いにどういう観察をしているか、協力し合おうと決められたんですね。そして、91年には資源開発の50年間凍結も決まり、それが、今も律儀に守られているんですね。それどころか、冷戦時代もこと南極に関しては、米ソ間でも一切の対立がなく、自由で平和な交流が続いていたというのです。では、南極は地上天国と言っていいんでしょうか。単純にそうとは言えないんですね。南極探検隊にとって、とってもやっかいな敵が二つあるそうです。

南極探検隊にとっての二つの敵

 第一は、南極の環境そのものなのです。そこは一言で言うと白い地獄だって言うんですね。とにかく、何にもない。音もない、臭いもない、あまりの寒さでウイルスもない、病原菌が生きて行けないほどの過酷さ、夏は一日24時間太陽がまわりつづけているので、夜がない。だから隊員は、カーテンを敷いて人工的に闇を作ってねるようにするそうです。逆に冬は一日24時間、ずーっと夜です。音も臭いもない世界での暗黒は、人間の精神を参らせるのに充分だそうです。

隊員同士の人間関係

 そして、もう一つの敵があるのです。それは、南極よりもっと手強いものです。一体何でしょう。隊員同士の人間関係だというのです。  私は今までいくつかの南極探検記録を読みましたが、どの記録にも必ず出てくるのは、人間関係の難しさです。仮に自然環境の優しい大陸で南極並に国際紛争が一つもなかったとしても、人間がいる限り、争いは無くならないと思います。なぜなら、争いの原因は、人間そのものの中に存在しているからです。聖書は、こんな風に語っています。
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」

人間を不幸にしている最大の原因

 人間を不幸にしている最大の原因は、何でしょう。それは、人間の外側にあるものではありません。その人の内側にある罪という性質なのです。

 私は先日、振り込め詐欺にあった方の話を聞いたのです。あんなにテレビや新聞、街頭で騙されたらダメだダメだと聞いていたのに、つい騙されてしまったと言うんですね。それを聞きながら、私は、自分が大丈夫だとはとても思えなくなりました。というのは、私も以前、まだ学生であったとき、知人に騙されて詐欺にあったことがあるからです。騙されたとわかったとき、相手に怒りが湧いてくるのは、まだ良い方なんです。自分が情けなく思えてきます。そして、人を信じることに身構えるようになってしまうんですね。詐欺は騙された人に後々までマイナスの影響を与えるものです。

 ところが、その詐欺の犯人がとある病院に入院しているということがわかったんです。なぜ私の耳にその情報が入ったんでしょう。なんと本人の家族が私に教えてくれたんです。しかも、私に対して、是非見舞ってやって欲しいって言うんです。彼は今、とても反省している、そして、恐らく退院することはないだろう。とっても思い病です。どうか、一回で良いから、面会してやって欲しいというのです。私にとっては二度と会いたくない人でした。はっきり言って顔を見る物嫌なんです。会いにいって優しい言葉をかけるなんてとても出来ません。私の前本能がそれを拒否するんです。しかし、私は、気が進まないまま、行くことにしたのでした。

自分の気持ちに正直になることと背くこと

 久ぶりに見る彼の姿は、見る影もないほどでした。げっそりやせていてまるで、別人だったのです。そして、気がついてみると私はキリストの福音を彼に語っていたのです。何回目かの訪問で彼は、病床でイエス・キリストを受け入れました。キリストの罪の赦しが本物であるということを説明する中で、私自身も彼を赦すということを、学びました。キリストによる罪の赦しが彼の魂の深いところに届いたとき、ああ、うれしいと言ったことばを私は忘れることは出来ません。そこに至って、私はようやく見舞いに行って良かったなあと思えるようになったのです。そして、このことは私にとって、新しい経験となりました。自分の気持ちに背いたことを実行したのに、幸せに満たされたからです。一般的には、自分に正直に生きることが幸せな人生の条件のように言われています。自分の気持ちに正直に生きてみて、良かったと思えることが、確かに人生の中にありますね。しかし、自分の気持ちに正直になって、言ったり、言わなかったり、或いは行ったり、行わなかったりすることで、返って人生を複雑にしてしまうこともあるのです。一体、何でそんなことが起こるんでしょう。実は、人間の心はしたいと思ってはならないことをしたいと思ったり、なすべきことをしたくないと思ったりすることが、多いからではありませんか。

罪という凶器を宿している人間

 動物は本能に従った行動をすることで、生き延びることが出来ます。しかし、人間は、本能に従った行動をすることで、返って不幸になったり、争いを招いたり、人生を複雑にしたりするんです。何故でしょう。本能が狂っているのです。いや、人の心の中に、罪という凶器を宿しているからなのです。そして、この罪という凶器の元は、完全なる善であり、愛であり、命そのものである神から離れた結果、人間の中に入り込んだ呪いなのです。誰でも自分の心、正直に見つめるなら、自分の醜さに打ちのめされてしまうのではないでしょうか。

 パウロという人は、こう言いました。
 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

一体誰が罪から救ってくれるのでしょう

 彼は、一体何が私を罪から救ってくれるのでしょうとは、言いませんでした。一体誰がと聞いたんです。一体誰が救って下さるのですか。キリストなのです。キリストこそあなたを神の元へと連れ運び、その切れた関係を回復させ、あなたの罪をすべて赦し、あなたの内側からあなたを変えることが出来る救い主なのです。どうぞ、あなたのために来られたこの生ける救い主を、受け入れて下さい。こころからお勧めしたいと思います。



Joyful Noice Singers:わが主キリスト
新約聖書 ローマ人への手紙7:15, 24-25
 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。