No.459 2009年01月11日「福音に示された神の愛」
おはようございます、高原剛一郎です
私は数年前に、メキシコに行きました。一週間ほど滞在したんですが、途中、あるメキシコ人のご家庭を訪問することになったんです。もちろん通訳付です。ところが、その家族の内の何人かが、おたふく風邪になっていたんですね。そして、私は、おたふく風邪にかかったことがないんです。つまり、免疫がないんですね。大人になってから罹る、おたふく風邪は大変強力なダメージを与えると聞いておりました。それで、私は神さまにうつらないようにとお祈りして思い切って訪問したんです。
プレゼントで親切な気持ちがよくわかる
そして、共にある問題について話し合い、そうして家を出ようとしたその時、ちっちゃい女の子が出て来たんですね。そして、今日の訪問をとても喜んでいるというしるしに、小さなキーホルダーを渡してくれたのでした。私はスペイン語が出来ません。また、彼女も日本語が話せません。しかし、彼女のくれたプレゼントによって、私を喜んで下さっているということがよくわかったんですね。ことばはありません。しかし、手渡してくれた贈り物によって、ことば以上に親切な気持ちが伝わってきました。一言も発することのない相手の篤い気持ちがよくわかったんですね。
神が下さったプレゼントで神の愛がよくわかる
そして、これは神さまについても言えることだなあと思うんです。今、肉声の形で神のことばを聞く人はいないと思います。神さまは姿が見えず、その声は耳に聞こえず、私たちの手でつかんだりさわったりして、捉えることは出来ません。しかし、あなたを造られた神が愛であるということは、神が下さったプレゼントではっきり知ることが出来るんです。神は、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わし、あなたのために罪の赦しを完成して下さったのです。この罪の赦しの宣告、宣言のことを福音って言うんですね。
聖書の中にこんなことばがあります。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」
神の義ってなんでしょう
さて、福音の内には神の義が啓示されていると書いてあるんですが、神の義ってなんでしょう。義っていうのは、正義と訳すことも出来ます。正義というのは、悪を憎むことです。そして、悪に対して罰を下すことなのです。罪に対する怒りは決して悪いものではありません。それはむしろ、必要なものです。
日本でも裁判員制度が始まりました
昨年、とうとう日本でも裁判員制度が始まりましたね。今まではプロの裁判官が判決を下してきたんですが、これからは3人の裁判官に一般の国民から選ばれた、6人の裁判員が事実のあるなしや、刑の重さを決めるというんです。どうして法律の専門家に審判を下させるのではなく、一般国民が裁判に参加するようになったんでしょう。一言でいうと、プロの裁判官の判決が一般の国民感情や常識から外れたものに流されていく可能性があるからです。いや、もっとズバリ言えば、近年の裁判所での判決は、刑が軽すぎるんじゃないかという感情が国民の間にあるって言うんですね。
私たちは、自らも不完全ではありますが、ひどすぎる犯罪に軽すぎる刑罰が判決されたときには、心の中に得も言えぬ違和感が湧いて来るんです。大抵の人は、悪は罰を受けるべきだと考えるんですね。そして、悪は裁かれるべきだという基準が心の中にしっかりと入っているんです。この罪に対する怒りを、義というのです。
神の正義は福音の中に啓示されている
ところが、聖書は罪に対する神さまの正義は、福音の中に啓示されていると語るんです。福音というのは、罪への罰ではない、罪を赦すという宣告なんです。そして、罪の赦しほど正義や法律や道徳に反するものはないのではありませんか。罪とは法を犯すことです。法を犯す罪を赦すというのは、法に対する挑戦ではありませんか。罪の赦しは、神の正義と絶対的に矛盾するのではありませんか。ところが、聖書は神の正義はこの罪の赦しの福音の中で、かえってはっきりと示されているというんです。どんなにひどい罪人をも赦すことの出来る福音の宣告の中に、徹底的な神の正しさが表れているのだと語るのです。最もひどい悪人をも赦すことの中に神の正しさを徹底的に貫き等した態度が示されているっていうんですね。
赦しと正義の両立はどのようにして
どのようにして赦しと正義が両立するんでしょう。イエス・キリストの十字架によって、この二つが両立するんです。イエス・キリストは全く罪のない生涯を歩まれました。それは、キリストの人格の中に、罪の性質がひとかけらもなかったからです。ことばにおいても、態度においても、心においても、何一つ悪がない方、これがキリストです。そして、この方が十字架に架かって全人類の罪を背負って下さったのです。そして、神はこの罪を担ったキリストを徹底的に裁いて下さったのです。如何に神の子であって、罪なき完全な人であったとしても、ひとたび罪を背負った時には容赦することなく、神は怒りの刑罰を振り下ろすことによって、罪が如何に憎むべき物であるかということを示したのです。
赦しは罪を大目に見ることではありません
罪人の赦しは、罪を大目に見ることによってもたらされたものではありません。罪に対する妥協なき裁きをキリストに下すことによって、もたらされたのです。ですから、罪人への赦しの宣言である福音には、神の恐るべき正義が、啓示されていると言えるんですね。
さらに、もう一つの意味があります。キリストの自己犠牲によって、罪の償いは既に終わっているため、罪人を赦すことこそが、正しいことになるのです。
神の正義は福音の中に啓示されている
私は何年か前、韓国に行きました。集会が終わった後、韓国の大学生たちを誘って、レストランに入りました。そうしてそこで楽しい時間を過ごしたんですね。ところが、支払いをしようとするとお店の人は、「ああ、もう終わっています。」て言うんですね。私は払った覚えがありませんし、大学生達も途中で立った人は一人もいないのです。「何かの間違いではありませんか。」と聞くと、店内にいたお客さんが代わりに払ってくれたっていうんですね。私たちは気がつかなかったのですが、どうも学生達の親がたまたま食事に来ていたらしいのです。店としては私たちから一銭も取るわけにはいかないと言います。なぜなら、すでに支払いは終わっていたからです。店が私たちに何一つ要求しないのは、正しいことですね。なぜなら、店はすでに別の人から支払いを受け取っているのですから。
あなたの罪がいかにひどいものであったとしても、神はあなたを無条件に赦して下さるのです。そうすることは神の正義となるのです。なぜなら、神はキリストによってあなたの罪の償いを既に受け取っておられるからです。どうぞ、この福音を受け取って下さい。イエス・キリストを自分の救い主として、信じ受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。