No.458 2009年01月04日「主は私の羊飼い」
あけましておめでとうございます、高原剛一郎です
今年も聖書と福音をよろしくお願いします。先日新聞に、面接に打ち勝つ特訓講義の記事が出ていました。すっかり冷え切った景気の中で、学生諸君はなんとか採用してもらうため、涙ぐましい努力をしているんですね。ところで、この特訓では何を訓練するんでしょう。見た目に良くうつる訓練なんですね。それだけ聞くと何か小手先の世渡り術に聞こえるんですが、人間は何と言っても第一印象が悪いと損なんです。第一印象が否定的だと、その人の持っている長所まで短所に見えてくるんですね。相手に自分の良さを解ってもらうためには、かなりの時間がかかってしまうんです。
神の本質はズバリ、愛です
そして、これは、神についても言えることなんです。この世界をお造りになった創造主に対して、あなたの持つ印象はどのようなものでしょう。日本では何かというと、罰を当てる神、たたりをもたらす神、暗くて、怖くて、おどろおどろしい神概念が蔓延していると思います。一端、神は厳しくて、冷たくて、怖くて、意地悪いというイメージを持つと、本当の神の心が、全く見えなくなってしまうんですね。
しかし、聖書は、神様の本質をズバリ、一言で語っているのです。何と言っているんでしょう。神は愛です。神は愛を持っているというのではないです。神の本質そのものが愛なのです。神様はあなたを愛して造って下さった。神様はあなたを愛して生かしておられます。そして、神様はあなたを愛して、救いを用意して下さっているというんですね。そして、愛は愛するものが自分の手の届かないところへ行こうとするとき、一層かき立てられるという性質を持っているのです。
迷った一匹の羊
ある時、キリストは人間を見つめる神の思いを譬えを用いて語られました。
「もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」
神から離れ、自分勝手な道にさまよう人間を、神はイライラしながらにらみつけていると思いますか。いいえ、心配し、心かきむしられるような思い、ひたすら助けたい一心であなたのことを見つめておられるのです。
吉川友梨ちゃん事件
大阪に住むものなら、誰もが気にしている行方不明事件に「吉川友梨ちゃん事件」があります。今から6年前、下校途中に、当時小学4年生だった友梨ちゃんが行方不明になったのです。今もってご両親はいなくなった娘を案じて、探し続けているんですが、この両親の弱みにつけ込んだ悪魔的な犯罪が、昨年発覚しました。二人組のその犯人は行方不明の娘さんを連れ去った犯人と交渉して、遂に保護したと偽ったのです。そして、「精神的に不安定ですぐ会えない、娘さんのためには治療が必要だ」と言って騙して、約470回にわたって6800万円を父親に支払わせていたと言うんです。友梨ちゃんのお父さんは、犯人たちが警察への不信感を巧みにあおっていたため、誰にも相談せずに、指定された銀行口座に振込みを続けていたのでした。では、どうしてこの事件が発覚したんでしょう。遂に財産が底をついてしまったからです。もう払える金がなくなってしまい、どうにもならなくなって、とうとうお父さんが警察に事情を打ち明けたのです。父親はどうして6800万円を払ったんでしょう。失われた我が子を取り戻せるかも知れないと考えたからです。今は手元にいない娘を取り戻せるなら全財産を失ってもいいと思ったのはなぜでしょう。愛しているからです。最悪を回避出来るなら自分の持ち物を手放すのに躊躇がなかったのは、何故ですか。愛しているからです。
罪はすでに赦されている
神様は、あなたが神の元から離れ、迷い出て、滅びに向かうことを無感動に見過ごしに出来ない方です。この方は、ご自分の持てるすべてを手放して、あなたを救おうと決心されたのです。即ち、神はご自分のひとり子をイエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、あなたの罪、咎、汚れ、傷、過去現在未来のすべての悪しき事実をキリストに背負わせ、キリストもろともあの十字架の上で完全に焼き尽くして下さったのです。キリストは十字架に架かることで、あなたの罪を完全焼却した上で、死後3日目によみがえって下さいました。どうぞ、覚えて下さい。あなたの罪は、すでに赦されているのです。あなたの罪の償いは、すでにキリストによって終わっているんです。後はあなたがそれを取りに行くだけで良いんです。
期限を過ぎれば一切無効
昨年末の新聞に一面全部を使った大広告がありました。全国の忘れ物の数という広告です。傘327229本、携帯22131個、手袋17540個、そして、最後に2億円2人と書いてあるんです。えっと思ってよく見ると2億円の宝くじが当たっているのに取りに来ない人が2人いると言うんですね。さらに、1等前後賞の5千万円を取りに来ない人が12人もいます。大体、毎年20億円前後の賞金が取りに来られないまま終わっているんです。
ところで、どうして広告まで打って取りに来ることを呼びかけているんでしょうか。宝くじには引替期間というのが有るんです。そして、期限を過ぎれば、一切無効になるのです。全額公共事業等に回されるんですね。
救いも取りに行けばいいだけ
救いも同じです。あなたのための救いはすでに実現しています。取りに行けばいいだけなんです。但し、有効期限内なんです。有効期限とは一体いつですか。あなたの生きている間です。ですから、今日なんです。今は恵の時、今は救いの日なんですね。いつかではなく、今日あなたを探し続けている方の元に帰ろうではありませんか。いずれではなく、今、あなたの帰りをこの上もなく喜んで下さる救い主を信じ、受け入れようではありませんか。この方を信じ、受け入れるものには、神は罪の赦しと永遠のいのちを約束して下さっているのです。
葬儀に相応しい態度
私は昨年、集会のクリスチャン女性の葬儀に参列しました。彼女は82才で天国に召されたのです。ところで、その葬儀の間、まだ幼い男の子の孫が最前列に座っているんですが、これがちっともじっとしてないんですね。式の前には廊下を走り回って、思いっきりこけて、ベソを書いたかと思うと、式の直後には私の所に来て、いろいろ悪戯するんですね。前に出たときには、さすがに泣いていましたが、それ以外のときは、はしゃぎ回っているんです。私は、はじめ幼いからことの重大さが、わからないんだそうなと思っていました。しかし、よくよく考えたら、この子の態度もまた、葬儀に相応しい態度かも知れないと思ったのです。なぜでしょう。彼は単純に天国で再会出来るということを信じているんです。「また会えるんだったら、どうしてみんなそんなにくよくよ泣いているの?永久の別れでないなら、必ずまた会えるということだったら、そんなに泣くことないでしょう。」とうことなんですね。その通りです。キリストにあるなら、私たちは死を恐れなくでも良いのです。どうぞ、あなたも今年イエス様を信じて、身も心も新たな年をお迎え下さい。心からお勧めしたいと思います。
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。