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Bible & Gospel

No.456 2008年12月21日「飼い葉桶のみどりご−救い主のしるし」

お早うございます、高原剛一郎です

 今から150年ほど前、ポーランドにザメンホフという人がいました。彼は眼医者になるんですが、その傍ら生涯をかけて取り組んだことがありました。それはエスペラント語を作ることです。実は彼の住んでいた村にはロシア系住民、ドイツ系住民、ポーランド系住民、そして、ユダヤ系の住民がいたんですが、互いにとっても仲が悪いんです。そしてしばしば流血騒ぎにまで発展してしまうのです。どうして互いにわかり合えないんだろう。それは共通の言葉を持っていないからだと結論づけた彼は、世界共通語を作り出すんですね。それが普及したら互いにわかり合えるだろう。そして、コミュニケーションが成立したら、争いも憎しみもなくなるだろうと希望に燃えたんです。エスペラントというのは、希望する人という意味なんですね。しかし、言葉が通じるだけでは、コミュニケーションにはならないんですね。

誤解を与える余地のない救い

 実は私自身も誉めたつもりなのに相手を怒らせてしまったり、或いは慰めたつもりなのに、誤解されてしまったりしたということが何回かあるんです。往年の大スターに有馬稲子さんという女優さんがいらっしゃいますね。若い頃、彼女が一番聞きたくない言葉は、美女だそうです。美人と呼ばれると惨めな気になったって言うんですね。普通はうれしいですよね。どうして彼女は、美人だ。美女だというのを聞くと落ち込むんでしょう。実は彼女は宝塚から舞台映画の女優として転身するんです。今ではこのパターンで成功している方がたくさんいらっしゃいますね。しかし、当時は歌って踊る歌劇団員と舞台女優の間には、はっきり棲み分けが有ったそうです。それで舞台芸術には辛辣な批評家がたくさんいるんですが、その批評家たちから、「美人だねー。美女だねー」といわれると、「美人だけど演技力いまいち、美女だけど、女優としての実力は無い」と言われているような気がして、たまらなかったって言うんですね。

 普通の人が聞けば、誉めことばであっても、心の傷に障られると素直に聞くことが出来なくなるのです。言葉って難しいですね。しかし、私たちを造って下さった神は人間に誤解を与える余地の一切ない形で、救いを語って下さったのです。どのようにしてでしょう。神のひとり子を人間の形に生まれさせることによってです。聖書に世界最初のクリスマスについての記事が出て来ます。御使いが野宿する羊飼いに現れて言うんです。

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

神は飼い葉桶に寝ている赤ん坊キリストとしてのしるし

 今から2000年前、イエス・キリストが誕生した日、世界のあちこちの色んな国で色んな国民の赤ちゃんが生まれたと思います。そして、赤ちゃんというのは大抵は温かい部屋、或いは清潔な病院で大切にされて生まれてくるものだと思います。しかし、神は飼い葉桶に寝ている赤ん坊こそキリストなのだと言ったのです。  飼い葉桶ってなんでしょう。動物のえさ箱です。牛や馬のエサの入っている石で出来た器なんです。もし、新生児が家畜のえさ箱に寝かされているのを見たら、どう思いますか。普通は不憫な赤ちゃんだと見るんじゃないでしょうか。しかし、この恵まれない赤ん坊の姿こそ、キリストとしてのしるしなのだとおっしゃるのです。

罪を赦すためのメッセージ

 私は先日、新幹線の3人掛けシートの真ん中に座っていました。右隣には以下身の以下つい漢字の男性です。大変気を遣いました。余計なトラブルにならないように、細心の注意を払ったんです。ところが左隣は赤ん坊を胸に抱いたお母さんでした。この赤ちゃんが何となく、息子の赤ちゃんの頃と似ているんですね。懐かしい気持ちになりました。私は右を見ると身体がこわばり、左を見るとリラックス出来たのです。無防備な赤ちゃんの前では何一つ緊張する人はありませんね。絶対に危害を加えてくる心配がないからです。神はキリストを恵まれない赤ん坊の姿で遣わして下さいました。なぜでしょう。それは、キリストが携えてきたメッセージが罪人をしかりつけ、責め立て、呪い、脅かすメッセージではなく、励ましを与え、悔い改める勇気を与え、罪を赦すためのメッセージであったからです。

姿は赤ん坊の主キリスト

 第二に、この方は赤ん坊の姿をしてはいても、主キリストなんです。主とはなんですか。王様のことです。支配者にして、リーダー、指導者、主権者なる方のことを主って言うんです。  第二次世界大戦のターニングポイントはノルマンディー上陸作戦でした。この日はディーデーという暗号名で知られています。元から激戦になると言うことが予測されていました。それでイギリスのチャーチル首相は自らも戦場に立って危険を共にしたいと司令官に言い渡したのです。しかし、そんなことをして敵の攻撃を受けて、チャーチルが死んでしまったりしたら、それこそ全体の士気にかかわってくる。それで司令官はそんなことはやめて下さいと頼むんですが、頑固者のチャーチルは一歩も引かないのです。それで司令官はキングジョージに説得を頼むのです。  ジョージ国王は言いました。「リーダーが戦場に立つのは当然である。イギリスの首相としてチャーチルがそう言うのは正しい。従って、国王の私が戦場に立つのも又当然である」とこう言ったんですね。これを聞いてびっくりしたのは、チャーチルです。「王よ。そのようなことはおやめになって下さい。万一のことがあれば取り返しが付きません。」「ではそなたも戦場に立つのを控えよ。」こうしてようやく戦場に行くことを思いとどまらせたんですね。しかし、この世界を造りなった、宇宙をお造りになった王の王である神が、人の子として生まれることを思いとどまらせることは、誰にも出来なかったのです。イギリスの国王は、傷を受けては大変だという理由で、戦場に立ちませんでした。
 しかし、王の王である主キリストは、傷を受けるかも知れないけれども、この世に来られたというのではないんです。傷を受けるために来られたのです。罪ある人間が罪赦されるためには、罪なき御方が罪人の代わりに殺されなければならなかったからです。王なのに王に反逆する罪人を救うために、命を差し出しにやってきた方、これがイエス・キリストという御方なのです。

飼い葉桶に寝ておられる救い主

 第三に、この方は衣にくるまって、飼い葉桶に寝ておられるというスタイルがしるしだとおっしゃったのですね。実はこの寝ておられるというのは、すやすや眠っている睡眠中であるという意味のことばではないんです。安心して横たわっているという意味なんですね。そして、これとおんなじ単語が使われている箇所は聖書の中でほとんどありません。一体、どこに使われているんでしょう。それは、十字架の上で息を引き取られた後、頭を垂れたと訳されている箇所、この頭を垂れたというのが横になったという箇所なのです。キリストは赤ん坊として飼い葉桶なのに、何一つ悪意が分からず信頼を持って横たわっていました。同時にこの方は十字架処刑の後、神に全幅の信頼を持って十字架の上に横たわって下さったのです。その信頼とはどんな信頼でしょう。神はこの十字架の償いの故に、どんなにひどい罪人であったとしても受け入れて下さるのだという事への信頼なのです。キリストが安心して思い残すことなく横たわることが出来るほどに、完全なる罪の赦し、これがキリストの十字架と復活による救いなんです。どうぞ、あなたもこのキリストを信じ受け入れ、まことのクリスマスを経験なさって下さい。



ファースト・ノエルより:久しく待ちにし
新約聖書 ルカの福音書2:11-12
 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。