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Bible & Gospel

No.450 2008年11月09日「器をきよめるキリストの犠牲」

お早うございます、高原剛一郎です

 ある方がこんなことを書いておられました。厚さ0.1ミリの紙でも、35回折り重ねると3400キロメートルに達します。又、一日10円ずつ貯金すると、80年間で利子を含めて1000万円になるって言うんですね。この番組も今日まで積み重ねて450回目です。ということは、初回から毎週この番組を聴いて下さった方は、450回も聖書のメッセージに触れて下さったということになりますね。それは素晴らしい事だと思います。なぜなら、信仰は聞くことによって始まると聖書は語っているからです。一度も聞いたことがない方のことを信じることは出来ませんね。キリストに対する信仰は、ひとりでに湧いてくるものではないんです。聖書のみことばに触れ続けることで与えられるものなんですね。

福音とは神様があなたに知らせたいメッセージのこと

 一般的な真理でも、それを理解したり、受けれたりするためには、まず判断材料が必要ですね。そして、判断材料というのは、多ければ多いほど良いんです。聖書の話も1回聞くより、450回聞く方が良いんですね。どうぞ、聖書を読み、メッセージを聞き、神様に祈り求めて下さい。神様は必ずあなたに分からせて下さいます。なぜなら、あなたが神様を知りたいと願う以上に、神様があなたに知らせたいと願っておられるからです。この神様が知らせたい聖書のメッセージを福音って言うんですね。

福音は英語でグッドニュース

 福音を英語では、グッドニュースといいます。良い知らせという意味ですね。ただの良いお話ではありません。いいニュース、グッドニュース、ニュースである限り、意外性がないとダメなんです。普通はあり得ないことがあったときこそ、ニュースになるんですね。

福音の雛型のような話

 私は以前、こんな話を聞きました。あるクリスチャンの大学生が、森永製菓という会社の入社試験を受けたんです。というのは、この会社は創業者がクリスチャンなんですね。どうせ就職するなら、クリスチャンの作った企業がいいと思ったようです。いよいよ、面接の時、こう質問されたんです。当社のCMソングで覚えているものを歌って下さい。彼はすかさず歌い出しました。「♪チョッコレート、♪チョッコレート、♪チョコレートは……しまった。」明治なんですよね。明治は森永のライバル企業です。なんたることか、彼は一世一代の面接で最も口にしてはいけない競争相手のCMソングを歌っていることに、途中で気づいたんです……が、ここで止めるわけにはいかない。それで「♪チョコレートは森永ー♪」と押し切ったそうです。しかし、面接官の反応は、冷ややかだったんですね。彼はがっかりして家に帰りましたが、しばらくして、森永から合格通知が届いたっていうんです。思わず聞き返しました。「なんで合格なんですか。」「当社は、聞きに強い人材を求めています。」と言われたそうです。

完全解決の喜びの宣言が福音なのです

 私はこれは福音の雛型だなあと思いました。というのは、てっきりダメだと諦めていたのに、救いがあったからです。もうおしまいだと絶望していたのに、解決があった。本来、叱られても当たり前なのに、評価された。これは当たり前ではないという点で、ニュースなんです。
 同じように、福音というのは、ニュース、しかもグッドニュースなんです。人は罪に対して、解決はないと思っていましたが、キリストによる赦しがあった。死に対しては、諦めるしかないと思っていたのに、永遠の命があった。人間が手も足も出ない問題に対して、神様はキリストによって完全解決を与えて下さったという、喜びの宣言が、福音なのです。  聖書はこう言っています。 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

すべての人は罪人

 さて、聖書によると、すべての人は罪人です。ここでいう罪の意味は、的外れということです。人間の作者である創造主という目的から離れて、神と関係を切って存在すること、神様の手を離れて自己中心に生きることを罪と言うんですね。しかし、この造り主の手から、離れたことこそは、人間の尊厳を台無しにし、最後は死に至ることになった根本原因なんです。

昭和天皇の杯をめぐる印象深いエピソード

 先日、私は、ある外交評論家の方から著書を送られました。その本の冒頭は、とても印象深いエピソードで始まるのです。  昭和32年彼は後に外務大臣になる園田外務政務次官を連れて、ニューヨークにあるウォルドーフ・アストリアホテルへ行きます。そこに住んでいる引退したマッカーサー元帥と面会するためです。執事に案内されて、広い応接間に通されると、椅子と絨毯以外はすべて日本の古美術で埋め尽くされていたそうです。当時、77才のマッカーサーはグレーのスーツに身を包んで現れ、椅子に腰掛けると、二人にタバコを勧めました。二人がタバコを取ると、元帥自らマッチを擦ってくれました。そこで30分間中身の濃い、会談が始まるのですが、困ったことに灰皿がないのです。たばこの吸い殻がどんどん大きくなるのに、灰を落とす物がない。一体マッカーサーはどうするのかと思ってみると、机の上にあった銀の杯の中に灰を落とすのです。

自分の手のひらでタバコを消した園田外務次官

 それで、その杯をよーく見ると、杯の底に16枚の花びらを持った菊の紋章が見えたのです。それは、昭和天皇がマッカーサーに送った杯だったのです。彼は机に灰を落とすわけにも行かなかったので、この杯を灰皿として使い続けました。すると突然、人間の脂肪の焼ける臭いがしたそうです。ふと見ると、隣にいる園田外務次官が、自分の手のひらで、タバコを消していたのです。その表情には何の変化もありません。瞬きすらしないっていうのです。何しろ園田さんという方は特攻隊長として終戦を迎え、剣道、柔道、合気道、合わせて十数段という猛者なのです。数秒すぎた後は何事もなかったかのようでした。会談を終えてエレベーターに乗った後、園田氏は言ったそうです。「君はよくあの杯を灰皿がわりに使えたなあ」と。日本外交の看板を背負う園田さんにとって、天皇の杯は日本国のシンボルのようでした。それを灰皿がわりに差し出すマッカーサーに、悪意はなかったかも知れませんが、園田さんにとってはゴミ箱の代用品になど断固としてして欲しくなかったのです。それで、我が身にタバコの火を押しつけて、器が貶められたり、けがされたりすることがないようにしたというのです。

我が身に人の罪を負われたキリスト

 さて、人間は神様の作品です。しかし、持ち主であり、作者である神の手から離れた人間は、まるで灰皿のように火を押しつけられて焼け焦げ、ゴミ箱のようにぞんざいに扱われて、本来の尊厳など見る影もないものです。しかし、杯は祝杯のためのもの、名誉のしるしです。人間はけがされたり、汚されたりするために造られたものではないんですね。神様から離れた人間が、損なわれていくことを惜しむあまり、キリストは我が身に人の罪を負い、灰を被り、裁きの日を一新に引き受けて下さったのです。そして、死後三日目に復活して、あなたを本来の使命と居場所に連れ戻して下さる方なのです。キリストこそはあなたの罪も、死後の裁きも飲み干して、祝福だけをもたらして下さる方なのです。どうぞ、このイエス・キリストをあなたも自分の救い主として、信じ受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。



国分友里恵:君のそこにいたのか
新約聖書 ローマ人への手紙5:8
 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。