No.449 2008年11月02日「裁きを語る理由」
お早うございます、高原剛一郎です
先日、ある作家がこんな事を書いていらっしゃいました。「言葉で大切なのは、温度と鮮度だ」と。どんな内容のある言葉も本心からの熱意が伴っていないと相手には伝わらない。また、ありがとうとか、ごめんなさいという言葉も、タイミングを逸したり、のばしのばしにしていると鮮度が落ちて、効力を発揮しないって言うんですね。言葉はいつも熱い心で、時宜にかなって語られるとき、相手に届くものとなるようですね。
聖書は神の熱い愛の心から出た言葉
さて、聖書は神の言葉です。そして、この聖書の言葉は、多くの人の人生を変えてきました。それは、神の言葉が神の熱い愛の心から出た言葉であったからです。ところで、神様の愛から出た聖書のことばに、しばしば「裁きについて」語られている箇所があるんです。その代表的な箇所では、このように宣言されています。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
愛のメッセージである聖書が、裁きを語る理由は何なのでしょうか。私は三つあると思うんですね。
裁きは事実であるからです
第一に、事実であるからです。現代仏教の高僧で鈴木大拙という方がいらっしゃいました。仏教をアメリカ人に伝えるために、英語で説法なさった方なんですね。実に聡明な方なんです。この方は、聖書と仏教の違いをこのようにおっしゃっています。「仏教で一番大切なのは、お釈迦様ではなく、お釈迦様の考え方である。お釈迦様の思想こそは一番大切なのである。だから、お釈迦様が実際には架空の存在であったとしても、いっこうに構わない。仏典の作者が誰であっても気にしない。考え方が保たれているならば、お釈迦様の歴史性はどちらでもいいのだ。しかし、聖書は歴史的事実に立っている書物だ。だから、イエスの存在や十字架や復活は、事実でないと聖書の福音は成立しない。」
私はこの方の分析の鋭さに、舌を巻きました。まさしくその通りなんです。聖書は歴史的事実を告げる言葉です。人間の死後、人は自分の罪の裁きを受けるというのは、脅しでも作り話でもなく。事実なのです。どうして事実と言えるんでしょうか。死後の世界を見て、よみがえったキリストの証言であるからなんです。
裁きは人を悔い改めに導くため
第二に、人を悔い改めに導くため、聖書は裁きを語るんです。自分の人生を審判する方を認めないという人生観は、人を不真面目にし、ブレーキのない車のように、暴走させます。その生き方を転換する動機は、裁き主がいると言うことに尽きると思うんですね。
私は先日、少年犯罪にかかわっている井垣康弘さんという弁護士の方のエッセイを読みました。
ある中学三年生が、万引きで少年鑑別所に送られてきたんですが、取り調べの警察官が、彼を励ますために、「君は初犯だし、鑑別所に入っても審判で家に帰れるよ。」という風に言ったんです。これは、もちろん真面目に反省したらという意味ですね。ところが彼は、それを誤解して、自動的に家へ帰れると取ったのです。そして、「どっちみち必ず家に帰れるんだったら、この4週間は楽しく遊び暮らそうではないか。」と考えたのです。課題作文初日の指定テーマは、「今考えていること」です。彼は次のように書きました。「泥棒の腕を磨いて、あらゆる修練を重ね、ついにはルパン4世になり、大金持ちとして豊かで楽しい人生を送ると共に、貧しい人たちを救ってノーベル平和賞を取りたい。」鑑別所の教官は驚いて彼をたしなめました。
しかし、この悪ふざけは審判の席まで4週間、ずっと続くんです。彼は反省文の代わりに「今回の事件を振り返って」というテーマに対してこう書きました。「毎日、店内を一巡して警戒していたのに、新たな監視カメラの設置を見落としていたのが残念無念だ。気がゆるむようでは怪盗にはなれまい。」
そして、「私の友達」という指定テーマには、「中学生になって2年半1日も休まずに万引きをして、成果を分け与えているので、私には子分が100人いる。」これは勿論ウソなんです。「被害者から私への手紙には、コンビニの店長さんからのきつい言葉が書かれたありました。新製品の監視カメラでようやくしっぽをつかんだ。今後君には店員を貼り付けているからな。」その返事の手紙で彼は書きました。「夢は大怪盗だから、こんな小さなコンビニはもう相手にせんよ。」
とにかく、面接、日記、作文の全てにわたって、怪盗ルパン四世になる話ばっかりなんですね。鑑別所の技官、教官、家裁の調査官から「いい加減にしろ!」と叱られても全く意に介せず、「裁判官は愉快な子だと認めて家に帰してくれる」と信じていたので、どんな忠告も入らないんですね。弱った調査官は本気で親に相談しましたが、親も「呑気でんなあ(関西弁で呑気ですねー)」の一言でどうにもなりません。精神科ドクターに診てもらっても精神に異常はない。仕方がありません。鑑別所と調査官の判断は「少年院送致相当」。
いよいよ審判がはじまりました。裁判官は宣告しました。「怪盗になるという人生設計をそこまで言い張るなら、その考えを改めさせるために、少年院に送る。」その瞬間、彼は大声で泣き叫び、「ごめんなさーい。ごめんなさーい。ごめんなさーい。」と絶叫しはじめたんです。そして、審判を一ヶ月先へ延ばしてもらって、再調査を受けることになったと言うんですね。
彼の悪ふざけは優しい言葉では、改まらないんです。自分のしたことの責任は、自分が負うという現実、これが彼の愚かな態度を打ち砕いたのです。いわば、裁きの存在が彼をあるべき態度へと導いたのです。
神に立ち返る心を与えるため
聖書はなぜ死後に裁きがあるんだよということを告げているんでしょうか。それは私たちを悔い改めさせるためです。人生に侮りを持ち、そして、ブレーキがきかなくなった人間の目を覚まさせ、心を覚醒させるために、神は裁きを語って下さってるんですね。神様に背中を向けて生きるという、今までの生き方を改めさせ、神に立ち返る心を与えるためなんです。
解決があるので神は裁き語られる
第三に、裁きについて、解決があるので神は裁きを語ります。 実は私は浪人時代、大学受験当日、寝過ごしてしまうという大失態をしてしまいました。当時、新聞配達の住み込み店員をしていた私は、つい二度寝をしてしまい、大事な受験当日遅刻してしまったのです。その時のことを思い出すと、今でも心臓がばくばくするんですね。そんな話をあるところでしたのです。するとそこに、同じように受験当日、寝坊した方がいたんです。私は共感できると思い、「もう一貫の終わりって感じだったでしょ」という風に聞きました。すると、「いや別に」っておっしゃるんですね。「まあいいかと比較的冷静に受け止めることが出来た」っておっしゃるんです。どうしてこんな一大事で冷静でいられたんですかと聞くと、彼は言いました。「本命の第一志望の大学の合格通知は既に確保していたから」とさらりと言ってのけたんですね。 彼は自分の失敗によって損なわれることのない、大本命の大学行きが確定していたのです。彼は生まれつき剛胆な人だから、冷静だったのでななく、解決を握っていたので、平気だったのです。
キリストの赦しにより裁きがないことが確定している
聖書はなぜ死後の裁きを語るのでしょう。それはキリストがあなたの罪の裁きを引き受けたので、キリストの赦しを受け取るものには「もう裁きが去った。裁きがない。」ということが確定しているからなのです。
どうぞあなたもこの生けるキリストの償いによる救いを受け取って下さい。心からお勧めしたいと思います。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。