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Bible & Gospel

No.445 2008年10月05日「私さえ愛するキリスト」

お早うございます、高原剛一郎です

 さて、日本ビクターという音響機器のメーカーがありますね。この会社のマークはとてもユニークです。蓄音機にじっと耳を傾ける犬の姿がロゴマークになっているんです。この犬には実はモデルがあります。フォックステリア犬のニッパーという犬なんですね。この絵を描いたフランシス・バラウドさんのお兄さんが飼っていた犬です。この兄さんが亡くなったため、フランシスさんが代わりにニッパーを飼い犬にしたのです。
 ある日のこと、今は亡き兄の声を蓄音機で鳴らせてみたのでした。するとニッパーが驚いて、蓄音機の前に座り込み、主人の声に耳を傾け続けたんです。まるでご主人から、もう一回ニッパーと呼んでもらえるのを期待するかのように、蓄音機の正面で身じろぎもせず、耳を傾けたんですね。その姿に感動したフランシスさんは、それを絵に描いてタイトルを付けました。「ヒズ・マスターズ・ボイス」つまり彼の主人の声です。音響メーカーの仕事は、声の保存ですよね。それでビクターのロゴマークに採用されたって言うんですね。

犬より白状な人間

 私はこの話を聞きながら、犬でも自分を大事にしてくれた主人のことは覚えることが出来るんだな。例えその主人の姿が見えなくなり、ここ何年間か交流もなく、何の気配がなくても、ひとたび主人のメッセージが流れると、途端に反応し、かしこまり、懐かしそうに聞いている。そうであるなら犬よりはるかに勝れている人間が、人間の主人であり、造り主であり、いのちの支え主である神様を、姿が見えないからといって、すっかり忘れ果てているのは何て白状なのではないだろうかと思ったんです。

 聖書の中にこういうことばがあります。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」聖書は、人間のしでかすことの中で、一番悪いことは不信仰になって生ける神から離れることだと言うんです。どうしていける神から離れることが悪いことなんでしょう。

絶対的に信頼できる方を見失った人間

 第一に、神という絶対的に信頼できる方を見失った人間は、どうしても攻撃的になるからです。
 総合格闘家に、須藤元気という選手がいます。まあ、今は現役を引退した方なんですが、彼はあるインタビュー番組で、こんなことを言っていました。「僕を含めて格闘技をやっている人間は、弱いと思います。自分が弱いと思っているから、強さに憧れるんです。自分自身が強いと思っていたら、強さには憧れないんです。弱い人って言うのは、やられっぱなしなんです。少し強い人というのは、やられたらやり返します。でも、本当に強い人は、やられてもやり返さない。だからといって、相手に屈服することもない。それが最強だと思います。僕自身格闘技をやっている間は、まだ弱いです。格闘技はもう良いなあと思うようになれたときが、強くなったときだと思います。だから、もっと強くなって、本当の強さってこういう事じゃないんですよって言えるようになることが、僕のテーマなんです。」というんですね。とっても意味の深いことだなあという風に思いましたが、同時に、具体的にやられてもやり返さない強さって、何なんでしょう。侮辱されたとても、平然としていられるような強さ、どんなに貶められても、それによってセルフイメージが損なわれない強さって、何なんでしょうか。何があっても自分を見失わない強さなんて、得ることが出来るんでしょうか。私は全知全能の神様の中に、それがあると思っています。如何に理不尽な扱いを受けても、神はそれをご存じで、それを神の御心の実現のために用い、最後は、決着を付けて下さると信じれる人は、強いんじゃないでしょうか。しかし、人は、この万事を駅と帰る神を見失っているので、反撃的攻撃的名人生になるのではないでしょうか。

神への不信を持った人間

 第二に、神から離れることが悪い理由は、それが神への不信に由来しているからです。
 ある老夫婦がスイス旅行に出かけました。その頃のスイスは、あんまり英語が通じなかったそうです。列車に乗って窓から景色を楽しんでいました。すると、反対側の席にいたスイス人夫婦が、席を替われという風に言っているようなんです。そちら側を見ると日差しもきついし、山の斜面ばかりが目に入るんです。一生に一度のスイス旅行なのに、どうして良い席を手放さなければならないんだろうか、ご主人は「ノーだ」と断固断りました。ところがこのスイス人夫婦が、とっても粘るんですね。こっちの席とどうしても替わってくれ、いや替わるべきだと言って、身振り手振りで席を立たせるんです。旅先で現地の人とトラブルになって、何かややこしいことになるのもかなわないと思って、不満ながらも席を替わってやりました。すると、次の駅でスイス人夫婦が降りてしまったんです。ろくろく景色も見ないうちに下車した夫婦を見送りながら、変な人たちだなあと思っていました。すると、まもなく、替わって座った席の窓から、それはそれは見事なレマン湖の絶景が見えたって言うんです。車内は歓声で満ちています。その景色に感動しながら、ようやく分かったことは、あの夫婦はわがままで席を替われと言ってきたのではなく、自分たちにこの素晴らしい景色を見せてあげようとして、申し出てくれていたのだということです。それなのに自分たちは腹を立て、憤慨していたのを恥ずかしく思ったのでした。どうしてあの時に怒ってしまったんでしょう。相手を親切な人ではなく、傲慢な人たちだと疑ったからです。
 人はどうして、聖書の言葉に逆らうんでしょう。それは、神様をまるで悪意ある方であるかのように、疑っているからではありませんか。疑っているから、神の親切が横暴に、神の行為が悪意に見えるのです。実に神への不信仰こそは、罪なのです。

キリストに待ってもらっている人間

 第三に、神様から離れることが悪い理由、それはキリストがあなたの帰りを待っていて下さっていると言うことです。
 私の好きなゴスペルに、私さえという作品があります。時々歌いながが、胸が詰まって言葉が止まってしまうことがあります。こんな詩です。

もう二度とあなたの許へ 戻れないほど背を向けて
もう二度とあなたの名を 呼べないほど悲しませて

そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ
そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ

もう二度とあなたの愛に 帰れないほど心冷たくて
もう二度とあなたの声が 聞こえないほど遠く離れた

そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ
そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ

 私がこのゴスペルを愛するのは、自分自身のことがかぶるからです。私はクリスチャンになって30年になりましたが、キリストを信じた後もどれだけキリストを悲しませてきたのか、本当に数え切れないと思うのです。私を決して裏切らないキリストを、どれだけ私はナカしませ、裏切ったことか、私を絶対に見捨てないキリストを私はどれほど、今までがっかりさせてきたことか、決して出来の良いクリスチャンではない私をそれでも愛して下さるのは、本当にイエス・キリストだけです。キリストは、あなたのために十字架にかかり、罪の赦しを獲得し、三日目に復活した生ける神です。そして、あなたが悔い改めて、帰ってくることを待ち続けておられる方です。それなのにもう後はない、もう手遅れであると勝手に決めつけて、神から離れるということは、悪いことなのです。どうぞキリストをこれ以上待たせないで下さい。キリストに立ち返ろうではありませんか。心からお勧めしたいと思います。



上原令子:私さえ
新約聖書 ヘブル人への手紙3:12
 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。