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Bible & Gospel

No.442 2008年09月14日「カルバリに立った3本の十字架」

お早うございます、高原剛一郎です

 この夏、世界中で飛行機事故が頻発しました。一旦事故が起こったときの被害の大きさは、すさまじいものがあります。それで何となく飛行機は危険な乗り物だと思う人が、今でも少なくないようです。ところが、事故の発生率や、死傷者の数を見てみますと、飛行機ほど安全な乗り物はないんですね。毎日飛行機に乗ったとしても、墜落する確率は250年に1回くらいだそうです。実際、飛行機事故に遭う確率よりも、飛行場に向かう途中で自動車事故に遭う確率の方が遙かに高いそうです。空飛ぶ乗り物である飛行機は、事故になったときには、大変な結果になることが分かっているため、実は事故が起こらないよう、又、アクシデントが起こったときでも、対応できるような知恵がふんだんに盛り込まれているんですね。

安全は偶然まかせの産物ではない

 私は先日、航空会社の友人からこんな話を聞きました。飛行機のコックピットには、機長と副操縦士がいます。この二人は実は食べる機内食が違うそうです。やっぱり機長は格が上だから、食べ物まで差を付けるのかと思いきや、そうじゃない。食中毒になったとき、同じ食べ物を食べていると両方とも倒れてしまいますね。それでどちらか一方は操縦できるようにするために、わざと別ルートの別料理にしてあるっていうんです。こういう安全保障上の取り決めが、700位もあるんで、飛行機は安全に飛んでいるんだって言うんですね。そしてこのような知恵と努力があると知っているので、乗客は高度1万メートルを飛んでいても、グースカ眠ることが出来るんです。  安全は偶然まかせの産物ではありません。知恵と努力の産物なのです。そしてあなたが今日まで生きているのも、決して偶然ではないのです。実は全知全能の神の知恵と努力の産物なのです。神様はあなたを生かし、支え、そして永遠の命をあなたに与えたいと願っておられる方なのです。そこで今朝、死の直前に罪赦され、永遠の命を得た人物のことを考えたいと思います。

十字架の上で怒りながら死んでいった人

 今から、2000年程前、エルサレムの郊外に3本の十字架が立ちました。真ん中はイエス・キリスト、その左右に強盗犯罪人です。3人とも同じ場所、同じ時間、同じ処刑方法で殺されます。しかし、この十字架の上における態度は、三者三様まるで違っていたのです。
 第一の人は、十字架の上で怒りながら死んでいった人です。人生を呪い、他人を呪い、神を呪い、怒りを爆発させながら死んだ人です。彼はなぜ怒っているんでしょう。最後の最後まで、人生が自分の思うようにいかなかったからです。ところで、人生には自分で選べることと、選べないことがありますね。選べないことって何でしょう。親を選べません。国を選べません。生まれてくる時代を選べません。性別も、血液型も、姿形も選べません。一人っ子なのか、末っ子なのか、自分の手の届かないことですね。もし、自分で選べるんだったら、まず選んでなかったという条件の中で生まれついた人も、少なくないと思います。自分のせいじゃないのに、ひどい家庭環境の中で育つということもあるんですね。しかし、人生は選べないことより、選べることの方が遙かに多いということも又事実なんです。

今の私がこうなのは、今までの私の選択の結果

 私はこの夏、若者たちと一緒にバイブルキャンプに行ってきました。キャンプ3日目の昼は、みんなで近くの山にハイキングに行くことになっていたんです。みんなそれはそれは楽しみにしてたんですね。ところがその日、土砂降りの大雨になってしまったんです。それでハイキングは中止になってしまいました。代わりに部屋に集まって「だしもの」をすることになったんです。急なことでみんな何の準備もありません。しかし、いまどきの若い人は、芸達者ですね。プロのピン芸人顔負けの爆笑芸を、次から次へと披露してくれたのです。そしてある女性は「自分がどのようにしてキリストと出会ったのか」ということを語り、今の気持ちをオリジナル曲にのせて、歌ってくれたのです。私は本当に感動しました。そしてこの日が雨になったことを神に感謝したのです。そしてつくづく思ったことは、人は天候を変える力も自由もないけれど、雨の日を楽しく過ごす工夫をすることは出来るということです。人生の中で、土砂降りの雨の中に放り出されるようなことがあります。それを避ける力は人にはありません。しかしふりかかったことにどう対応するかを選ぶ自由はあるのです。
 怒りながら生きている人は、ふりかかった問題に対して、怒り散らすという態度を選び取った人です。今の私がこうなのは、今までの私の選択の結果なのです。運命や人のせいにしている限り、怒りから解放されることはないのです。私の人生は、私がこれまで、選んだ結果だと認めると言うことなんですね。

他人のために祈りながら死んだイエス

 第二の人は、十字架の上で満足して、他人のために祈りながら死んだイエス・キリストです。キリストは十字架の上で祈られました。父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです。キリストは何一つ悪いことをしなかったのに、最悪の方法で処刑されて行かれたのです。その中でキリストにはひとかけらの怒りも、恨みも、憎しみもなかったのは、何故でしょう。この方だけが、自分で何をしているのか、はっきり分かった上で生き、はっきり分かった上で死を選んだ方だからです。キリストはこのとりなしの祈りをするために、自ら十字架にかかろうとして、この世に生まれて下さった方だったのです。キリストにとって十字架は、他人に押しつけられたものではなく、自らの意志で選び取ったものだったのです。キリストは十字架に架けられたのではありません。自分で十字架に架かりにいったのです。罪なきキリストが、罪人の身代わりとなるために十字架にかかり、あなたのために命を投げ出して、祈って下さったのです。あの祈りは紛れもなく、あなたのためだったのです。

悔い改めてキリストを信じながら死んだ人

 第三の人は、十字架の上で、悔い改めて、キリストを救い主として信じながら死んだ人です。彼は言いました。「イエス様あなたの御国の位にお就きになるときには、私を思い出して下さい。」口語訳という聖書では、「あなたが御国の権威を持って、おいでになるときには、私を思い出して下さい。」と訳しています。「イエス様あなたはただの人じゃない。神の支配する天国で王座に就く方です。あなたこそ王の王です。どうぞこの罪深い者を覚えて下さい。私の王様になって下さい。」って装意味ですね。これは彼の信仰告白です。どうして彼は人生の最後の最後で、悔い改めることが出来たんでしょう。どんなにひどい罪人にも、赦される道があると知ったからです。赦しを知ったので、悔い改めが生じたのです。それまでは、彼も十字架の上で、のたうち回りながらイエスを呪っていたのです。しかし、イエスの犠牲による赦しを聞いたとき、自分はひどい目ばかりにあって生きてきたのではないと言うことに気付いたのです。人類の中で、誰よりもキリストに近い場所から、キリストの祈りを聞くことが出来るように、神が最後のチャンスを与えて下さった場所が、この死刑、十字架処刑だったんだと分かったんです。神様は、あなたにもあなたへの最高のチャンスを与えて、語っておられる方です。どうぞ、あなたのための救い主、イエス・キリストを信じ、心に受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。

森祐理:イエスの血潮
新約聖書 ルカの福音書23:42-43
 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」