No.440 2008年08月31日「完了した救いを受け入れる祈り」
お早うございます、高原剛一郎です
私はこの夏、韓国に伝道旅行してきました。そして、韓国最南端の島で、ある方の家に泊まったんです。一つの部屋に私を含めて3人の男性で一泊しました。私が真ん中で、両隣は韓国の伝道者なんです。ところでこの夜は、すさまじいことになったんですね。それは両隣からステレオ放送でいびきの轟音が放たれたのです。特にその家の主人のいびきのすごさと来た日には、いままで聞いたものの中で、ベスト3に入ると思います。言葉でお伝えできないのが残念です。翌朝、彼は「よく眠れましたか」と聞いてきましたが、私は苦笑するしかありませんでした。そして、奥さんに聞いてみたんです。「あなたはあのいびきを毎晩聞いているんですよね。眠れますか。」すると「すっかり馴れてしまって今は何ともない。それどころか、彼がいない夜は静かすぎて眠れない。」と言うんですね。いびきがなっているときの方がぐっすり眠れるっておっしゃるんです。しかし、彼女は続けて言いました。「でも、この生後3ヶ月のこの赤ちゃんが泣くと不思議に目が覚めるんですよ。」実はこの赤ちゃんは結婚21年目にして授かった初めての赤ちゃんだって言うんですね。可愛くて仕方がないこの赤ちゃんの泣き声は、如何にかぼそくともお母さんを揺り動かす力があるんです。何か心が温かくなりました。天の神様のことを思ったからです。
あなたの祈りを開かれる神の耳
この世には大事件や特別ニュースが毎日のように飛び交っています。しかし、神の耳はあなたの祈りのために開かれているのです。たといどんなに小さい祈りであったとしても、どんなにささやかな叫びであったとしても、又あなたがどんなに小さい存在であったとしても、神はあなたの祈りをお忘れにはなりません。神は救いを求める全ての人に遠い方ではないのです。
今日は、キリストが十字架で語られた言葉の中から考えたいと思います。聖書にこうあります。
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」
キリストは十字架の上で息を引き取る直前に、とても意味深い言葉を語られたのです。「完了した。」とおっしゃったのです。一体何が完了したんでしょう。
神の約束が完了した
第一に「キリストの十字架において神の約束が完了した。」というんです。神は人類を罪から救うための計画を立てられました。その計画は旧約聖書の中に書いてあります。旧約聖書は神が人を罪と死から救い出すために、救い主を送ると言うことの予告状であり、約束の書物なんです。旧約聖書には何と350ヵ所以上にわたって、キリストに関する預言が記されています。その約束のことごとくがキリストによって果たされた、約束は完了したって言うんですね。
撤回される人の約束
ところで私は今まで、遺言という本来何があっても破られてはならない、とっても大切な約束が、公然と破られるのを何度か見たことがあるんです。あるクリスチャンの方は、自分の死が近いことを悟ったとき、遺書を書きます。そこには「自分が死んだらその時はお葬式は教会でやって欲しい、キリスト教式の葬儀を上げて欲しい。そのために必要なことは個々に連絡したらよい」と葬儀の段取りまで詳細に書いて「これが最後のお願いです」としたためるんですね。家族は「お母さん分かりました」とか「娘よ。承知した」と言ってご本人たちを安心させます。しかし、亡くなられた後でそのまま仏式葬儀を強行されたケースを何回か見たことがあるんです。あんなに固く約束したはずなのに、その約束が破られます。何故でしょう。世間体を気になさるからですね。
先日新聞の法律相談で、こんな記事がありました。親友から死の直前に息子を頼むと託された人の相談です。息子を頼むという意味は、大学まで面倒を見てくれという意味だったんですね。しかし、その親友の息子さんは、絵に描いたような道楽息子でした。大学には入ったものの籍だけ置いて遊び倒しています。それでとうとう援助を打ち切ったところ、息子の方が法律論を振りかざして、煩わしいことになってしまったが、さてどうしたらよいかという相談です。どちらのケースも約束をしたものの、その約束を果たしたくなくなるような状態になったために、撤回したという話なんです。
神は人類に救い主を送るという約束をして下さいました。しかし、約束通りにイエス・キリストがこの世に来られた時、人は神に反対し、キリストに悪態をつき、聞く耳を持ちませんでした。約束を果たしたくなくなるような状態になったのです。しかし、神は人の側の状態が如何に不誠実であったとしても、約束通りにキリストを送って下さったのです。そしてそれによって、聖書の神は信頼に値する神なのだと言うことを明らかにして下さったのです。
救いが完了した
第二に、救いが完成したという意味で完了したのです。
韓国に行って驚いたことは、どこの町に行っても十字架が林立していると言うことなんですね。もう、教会の秋葉原みたいに、教会が所狭しと建っているんです。しかも豪華で、きれいで、でっかくて、建物を見ると圧倒されてしまうんですね。そして多くの方々が、5時前に起きだして、祈りを捧げています。断食します。又徹夜で祈っているんですね。しかし、私はそういう熱心な方々と話していて、気付いたのです。何故そんなにも熱心に祈り、断食し、神に求めるのか、それは救いの確信を持っていないからだったんです。キリストを信じることで、クリスチャンになるまでの全ての罪は赦されたと感謝しているのですが、信じた後クリスチャンになった後で罪を犯した場合、「自分の悔い改めの力で赦しを獲得することが出来る」と考えているということが分かってしまったのです。しかし、キリストによる救いは、そんな中途半端なものではありません。人が生まれてから死ぬまでの間に犯す全ての罪の償いが、完了したのです。クリスチャンになった後、将来に犯す罪をも含め、一切合切の罪の赦しが完了したのです。信じるまでは神の恵みで罪を赦してもらうけれど、信じた後の罪の始末は、自分でしなさいなどとは、神はおっしゃっていません。キリストの救いは、人が思うよりはるかに完全で、もっともっと赦されている赦しなのです。それは、完了した救いなのです。
クリスチャン歩みが完了した
第三に、信じたクリスチャンの死ぬまでの間の歩みを完了して下さったのです。
今から2年前、私はハワイにいる日本の方々に伝道に行きました。そして、そこで一人の女性が、3日間メッセージを聞き続け、はっきりと自分のために死んでよみがえったイエス様を信じ受け入れたのです。彼女はそのことを日本の長崎の実家にいるお父さんに伝えました。するとお父さんは、彼女の得た魂の平安、罪と死後の裁きからの救いについて、とても聞きたがったんですね。なぜなら、とても重い病気で入院しておられたからです。彼女は電話で伝えるより、直接話をしようと思い、すぐに帰国なさいました。そして病院の枕元でキリストによる罪の赦しを語ったのです。お父さんの心は、既に渇いていて、そして整えられていました。そして、病床でキリストを信じたのです。そして、それから一週間も経たないうちに、天に召されて行かれたのです。彼女は、まるでお父さんの救いのために、自分がまず救われたみたいだとおっしゃっていました。
聖書にこんな言葉があります。
「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)
クリスチャンになった後の良い働き、偉大なる歩みも神はあらかじめ完了して下さっているのです。ですから、勇気を持って歩めるんです。どうぞ、キリストによって完了したこの救いを受け入れる祈りをして下さい。なぜなら、どんなに小さな祈りでも神の耳は、幼子の心で祈る祈りに開かれているからです。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。