No.437 2008年08月10日「死−解かれて自由になること」
お早うございます、高原剛一郎です
明治の文豪に森鴎外という人物がいます。ある時、彼の二人のお子さんが、同時に百日咳にかかり、一人があっという間になくなってしまいます。そして、もう一人残った真理ちゃんという長女も、余命24時間を宣告されてしまうのです。鴎外自身も医者でした。彼は小児科医の薦めもあって、モルヒネによる安楽死を決心します。それは娘の苦しみが見るに見かねるものであったからです。
ところがいよいよ安楽死の注射をしようとしたその時、義理の父親が乗り込んできて、鴎外夫婦を一括するんですね。「人間にはそれぞれに天命という者がある。人のいのちを握っているものは、天なのだ。それに逆らっていのちを打ち切らせるとは何事か。」その剣幕に押され、注射は取りやめになりました。そして、不思議なことに、それを境に長女真理ちゃんは、徐々に回復し、いのちを取り留めたのです。
いのちの不思議
いのちって不思議です。元気な人が急に亡くなったり、もうダメだと思われた人が、長生きしたりします。
今は明治時代より、もっと医学が進歩しています。当時治せなかった病気も、今では解決できることも多いでしょう。しかし、本当のところいのちって何なのか。死って何なのか。医学にその答えはないんですね。だからこそ、人は21世紀になっても、死を恐れ、日頃は出来るだけ考えないようにしているのではないでしょうか。しかし、聖書は、私たちに死の解決を宣言しています。今日、処刑を目の前に、死の意味を単純に語ったパウロという人物に焦点を当てて、考えてみましょう。
パウロの死に対する勇気
聖書の中で、彼はこう語っています。
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」
ここでパウロは死を目の前にして、絶望ではなく、希望に燃えています。何故彼は死を恐れなかったのでしょう。
第一に復活のキリストによって死の正体と限界をはっきりと見極めていたからです。
ムツゴロウさんの動物王国
私は以前ムツゴロウさんの番組を見るのが好きでした。北海道の無人島に一家で移り住んで、野生の動物王国を作っていく記録番組です。野生動物は、人間に馴れていません。基本的に人間に対しては警戒心を持っています。不用意に近づくと、反撃されるんですね。いや、下手するといのちの危険があります。ところが、どういうわけかムツゴロウさんの手にかかると、野生の動物があっという間に、手名付けられてしまうんです。彼はずんずんと動物に近づいて、あっという間に仲間になってしまうんです。では、何故恐れなく動物に近寄ることが出来るんでしょう。その動物の習性や癖について、よく知っているからなんですね。そしてその動物にあわせた近づき方をしているので、危険が少ないって言うんです。
例えば、ある動物は、後ろから近づくととても危険です。また、別の動物は、昼間は活動しないので、不機嫌です。また、別の生き物は特定の色やにおいで興奮したり、逆に落ちついたりします。そういう習性を知り尽くしているということが、近づく勇気の根拠となっているんだって言うんですね。何故、怖くないんでしょう。相手の正体を知っているからです。逆になぜ恐ろしくなるんでしょう。相手の正体が分からないままでいるからです。得体の知れないものほど恐ろしい者はないんですね。しかし、相手の手の内が見えてしまうと、対応することが出来るので、落ちついていれるのです。
人はなぜ死を恐れるのでしょう
これは、死に対しても言えることです。人はなぜ死を恐れるのでしょう。死というものの正体がよく分からないからではありませんか。死んだら最後、どうなるのか。死後、人の魂はどこへ行ってしまうんだろうか。見当がつかない相手だからこそ、恐ろしいのです。 しかし、パウロは死の限界を見切っていました。なぜなら彼は、死からよみがえったキリストと出会って、キリストを救い主として信じた人であったからです。死はすでにキリストによって、打ち破られているということを知っていた。これがパウロの死に対する勇気の第一の理由です。
死の意味を知っていたパウロ
第二に、死の意味を知っていたことです。パウロは「私が世を去るときは来ました。」と言ったんですね。この世を去るという言葉は、二つの意味があるんです。第一は明らかになるという意味ですね。キリシャ語で世を去るというのは、アナルヨーという言葉です。ここから英語のアナリシス、分析という言葉が生まれるんですね。アナリストっていう職業がありますね。経済アナリストというのは、経済問題を解き明かしてくれる人のことです。クリスチャンにとって死とは人生の出来事の全ての謎を、神の理解で分かる世界に行くっていうことなんですね。
私も今までの人生の中で、その時、分からなかったけれど、時間をおいて見ていったときに、ああこんな意味があったのかって、そういう風に後で謎が解けることがあります。しかし、今だになんであんなことが起こったんだろうかと分からないままになっていることもあるんです。しかし、天国では、人生の謎の全てが神によって解明され、判明するんです。その時、神様のなさることは何と完璧だったのかと言うことを知って、みな圧倒されるに違いありません。そのような理解に達する世界、それが天国なんですね。その世界に行くこと、この天国への玄関口、これが死、クリスチャンにとって意味なのです。
アナルヨーという言葉
第三に、アナルヨーという言葉には結び目をしっかり解くという意味があるんですね。一日の労働でへとへとになった家畜のつなぎひもを解くときに使います。或いは旅人が次の目的地に向かって出発するため、テントをたたむと言うときにも使います。或いは港に係留している船を解いて、目的地に進んでいくときにも使います。これがアナルヨーという言葉なんですね。この地上の生涯は労多く涙多く汗を流し、悲しみにあえぐことがたくさんあります。しかしそういう重労働から解放されて本当の安息の目的地に進んでいくこと、これがクリスチャンにとっての死なのだっていうんですね。
人生の本番は天国に
人生の本番はこの地上ではありません。本番は次の天国において待っているのです。ですから、この地上では、あんまり堅くなりすぎる必要はないのです。なぜならリハーサルだからです。一度きりの人生でどんどん挑戦していけばいいんですね。本当の本番で、間に合う者となるために、この地上の生涯があるのです。では私たちはどうすればいいんでしょう。この死の解決者、イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れることなのです。
死を飲み込む人生
ある方はこのように言いました。「最も良いものは最も身近なところにある。息はあなたの鼻の穴の中にあり、光はあなたの目の中にあり、花はあなたの足元にあり、義務はあなたの手元にあり、救いの道はあなたの目の前にある。」どうぞ、イエス・キリストを信じ、死を飲み込む人生に入って下さい。心からお勧めしたいと思います。
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。