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Bible & Gospel

■ No.434 2008年07月20日「神が人に求める態度」

お早うございます、高原剛一郎です

 最近、注目を集めているエンターテイナーに、テーブルマジシャンというのがあります。これは、お客さんのすぐ目の前でする手品師のことです。間近で見れるので、成功しますと、返って大がかりなマジックよりも、驚きも大きくなるそうです。あるテーブルマジシャンが、インタビューを受けていました。どうして一回も失敗しないでやれるんですか。すると彼は言いました。「とんでもない毎回失敗だらけですよ。ただお客さんの目の前ではその失敗を失敗と見せないワザに長けていますけどね。」一流のマジシャンとは、失敗しない人ではなく、失敗を失敗と見せないワザが一流なのです。

花伝書という本

 中世の能の奥義を書いたものに「花伝書」という本があります。その本によると、「名人とは、失敗しない人ではない。失敗したとき、その失敗を用いてより酷のある舞に高めていくことが出来る人のことを名人という。」と書いてあるそうです。
 人間は、生まれてからこのかた、たくさん失敗します。毎日失敗します。しかし、神様はその人間のしでかした失敗を用いて、より良いことのために活かすことが出来るのです。
 人間がしでかした最大の失敗は、自分の造り主を捨て、神に反逆することでした。この罪という最悪の失敗すらも、神はご自身の栄光のために、用いることがお出来になるんです。人間は神が遣わした救い主イエス・キリストを十字架につけましたが、神はこの人間の手による十字架処刑を用いて、人間の罪をキリストに負わせ、人の罪をここで永久処分して下さったというんですね。

 今日は、人類を罪から救う神のメッセージを考えたいと思います。
 聖書にこうあります。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主はあなたに何を求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」
 ここに人間が幸せになるために必要なことが三つのポイントで示されています。

自分の存在価値の根拠を創造主に置く

 第一は、人にとって良いことを知っているのは、人の作者である神だと認めると言うことですね。 人間の行動基準を神の言葉に置くと言うことです。

中村あゆみという歌手

 私が学生時代、中村あゆみという歌手が活躍していました。彼女のデビュー曲である「翼のおれたエンジェル」がカップヌードルのCMソングに採用されまして、それが大ヒットになるんですね。
 ある時、私は、友人の家へ遊びに行きました。彼には双子の妹がいたんですが、歌がそれはそれはうまいんです。彼の家に行くたびにギターの伴奏で妹たちの歌を聴くのを楽しみにしていたんですが、その時は様子が違ったのです。何と声帯がつぶれているんです。普通の会話もがらがら声というか、しゃがれた声で、痛々しいんです。しかもお姉ちゃんも妹の方も、二人ともノドがつぶれている。「一体どうしたの」という風に聞きますと、中村あゆみになろうとして声がつぶれたというんです。実はこの中村あゆみさんの声というのは、すごいハスキーボイスなんですね。かすれきった声で歌うのが、彼女の特徴というか、個性だったのです。

間違った基準を基準にする                     

 そうしてその当時、かすれた女性ボーカルの声こそが、何よりも一番美しく、かっこよく、いかしてるという風潮が、世の中に充満していたんです。それはマスコミが作った流行です。しかし、ハスキーであることが、魅力的であるとするなら、ハスキーでない声はつまらないものに思えてしまうんですね。それで当時の女子中学生達は、みんなわざと声帯を痛めつけるようなことをやったんです。間違った基準を基準にして受け入れると、結局は自分をつぶすことになるのです。
 神は、中村さんには中村さんの才能を与えたように、一人一人にその人独自の才能を与えているのです。もし自分の造り主を見失い、他人と比較して生きるなら、その人は、いつまでたっても自分と和解することは出来ないでしょう。なぜなら、その人はその人であって、あの人ではないからです。
 人が幸せに生きる第一の秘訣は、神が私を意味ある者、目的ある者、価値ある者として作って下さったということを知るということです。自分の存在価値の根拠を創造主に置くということです。

神の前にへりくだる

 第二に、神の前にへりくだるということです。へりくだって自分は、完全なる創造主の前に、罪人であるということを認めることです。
 ある新卒の社会人の方が、相談事を持ってきてくれました。実は彼のお母さんは、子離れが出来ない母親で、二十歳を過ぎた彼に対して、それはそれは細かい世話をやくっていうんですね。何をするにしてもいちいち、いちいち口出しして、そして小学生の世話をするようなことをする。集会に行くことについても質問攻めにする。アパートで一人住まいをはじめたら、勝手に模様替えまでされたそうです。このままでは気が狂いそうだというのですね。「まあ、なんて子離れできない母親なんだ」という風に彼は憤慨して、そして、その窮状を訴えてきたんですが、私は質問してみました。ところで君は大学時代、何か社会に通用する資格を取りましたか。君の授業料は君が払いましたか。このジャンルについては、親にも負けないという専門分野あるいは、得意な事って何かありますか。三つともノーでしたね。このお母さんが世話をやくのも、これは考えものなんですけれど、でもそうせずにおれない頼りなさというものを発散しているのは、彼の方でもあるんです。

主権を無視することは罪

 自分は何の問題もないという立場で立ってみると、何てあの母親は、子離れできてないのかと思うんですが、でも、まわりが悪いと思えてくる、そのこともへりくだって考えてみるなら、私の中にそうさせている者があるからかも知れないんです。人に対してもそうであるなら、ましてや神様に対して、私たちはどれだけ多くの借りを受けて生きているのではないでしょうか。しかもその神の主権を認めてこないということは、なんという滑稽なことではありませんか。この神様の主権を無視することを聖書は罪と語るんですね。

へりくだって神と共に歩む

 第三に、へりくだって神と共に歩むと言うことです。罪ある者がきよい神様と共にいることが出来るようになるためには、まずその罪が完全に取り除かれなければなりません。この罪の取り除きのために命を投げ出して下さったイエス・キリストを信じるということ、これこそが、神の求めていることなのです。

肝臓を提供したドナーは命の恩人

 数年前、私は、アメリカに行きました。到着初日、ある方が歓迎パーティーを開いて下さったんですが、そのご本人が欠席しているんですね。急な用事で行けなくなったとおっしゃるんです。後でその用事を伺い、納得しました。実は彼は数年前に、肝臓移植の手術を受けていたんです。彼に肝臓を提供したドナーは、もちろんもうこの世にはいません。脳死状態になったので、移植用に肝臓を提供して下さったんです。ただ彼の両親が自分の息子の肝臓をもらった人に会いたいという風に思い、急に面会にやってきたというのですね。自分にとって命の恩人である人の父親が、あなたに会いたいという風に言ってきたなら、これは万難を排して会うのが当然ではないかというんですね。
 あなたに命を与えるため十字架に死んだ方、そして、よみがえった方、このイエス・キリストの父なる神が、あなたに会いたいと訪問なさっています。どうぞ、神に救いを願い「自分の救い主としてイエス・キリストを受け入れます。」と告白なさって下さい。心からお勧めしたいと思います。




旧約聖書 ミカ書6:8
 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。