■ No.430 2008年06月22日「誰がキリストを十字架につけたのか」
お早うございます、高原剛一郎です
今から何年か前、私は髪の毛の専門家のカウンセリングを受けたことがあります。その時、ひとつ質問したんですね。何で髪の毛って生えてるんですか。なぜ髭って生えるんですか。体毛って何の役に立っているんですか。すると応えてくれました。人間のいのちを守るためですっていうんです。実は、人の食べる食品の中には、本来入っていてはならないものが、混入している場合があるんですね。汚染された川で釣った魚の中には、水銀や鉛が蓄積されています。そういうのを刺身にでもして食べると、体の中に水銀や鉛が蓄積するんですね。放っておいたら肝臓がだめになります。そこで、人体は体の水銀や鉛を髪の毛に取り込んで、体の外へ運び出してくれるっていうんですね。人間の体というのは、健康になろうとするシステムが働いています。健康になるために、体の中の有害なものを外部へ運び去ろうとするっていうんですね。
借金ほど人間関係を損なうのもはない
さて、体の中の有害物は、そのままにしていると、体が蝕まれていきます。それと同じように、私たちのいのちの中にも、放置しておくと、人格を蝕み、最後は永遠の滅びに至らしめる、致命的なものが宿っているのだと聖書は語るんです。
これを聖書は罪と語るのです。聖書は、すべての人は罪人であると、断言しているんです。そして、しばしば、罪を借金になぞらえて説明するんですね。
ある弁護士の方がこんなことをおっしゃっていました。今、借金して困っている人の半分は、他人の保証人になった人だというんです。保証人になったり、お金を貸したりすると、結局、金と友達の両方を失うことになるっていうんですね。金を貸したら、貸した人は、いつ返してくれるかという心理になる。借りた人は、負い目が生じて、自然な態度が取れなくなる。その内、返済が遅れたり、返せなくなったりすると、心理的に追い詰められていきます。そうして、大抵は、借りた方が貸した人に、怒りや苦さを感じたりするっていうんですね。このように、借金ほど人間関係を損なうのもはないっっていうんっですね。借金とは一体なんでしょう。関係を損なうものです。罪とは言いたいなんでしょう。神との関係を損なうこと、「神などいらない」いや「神などいない」という人生観に立って、神との関係を断ち切って生きることを罪って言うんです。
人間同士の借金でも、借り手の方が、貸し手に怒りを感じることがあるように、負債感というのは、人間をして神を憎むようにしむけるものなんです。罪は、神を血も涙もない、冷酷な借金取りのようにイメージさせてしまうのだっていうんですね。あるいは、神様をいやな存在として、心の中から追放してしまうんです。
心で見えるもの
随分昔の話ですけど、会社の同僚と心斎橋(大阪市内)を歩いていると、大学時代の友人とばったり会ったんでした。少し立ち話をして別れたんですが、一緒にいた同僚が言うには、「君の友人って随分派手な生活をしているんだなあ」というんです。どうして、そんなこと分かるんですかと聞くと、彼のしていた腕時計は、150万円は下らないだろうというんですね。以前、高級時計店に勤めていたその人は、友人の腕時計が外国の有名メーカーのものであることが、すぐに分かったって言うんです。しかし、私は全く気がつかなかったんですね。大体、人の手首に巻いてあるものなんか、いちいち見ますか、普通の人は見ないんじゃないですかね。大体私は装飾品には一切関心がありません。ですから、見ていても見えなかったのです。目で見えるものは、心でそれを理解する準備の出来ているものに限られているんですね。これは、神についても言えることなのです。
神などいない方がよいと思う心
神様に気付けるのは、神様を知る心の準備が出来ている人だけなのです。神などいない方がよいと思っている人には、いかに明白な神存在の証拠が、目の前にあったとしても、それを見逃してしまうのです。そして、神などいない方がよいと思う。その心の態度を、聖書は罪と語るのです。そして、神など以内方がよいと思うその理由は、神を冷酷な方だと思っているからです。
しかし、神様は、あなたの造り主です。あなたの魂の親です。あなたを愛し、あなたを大切に思い、あなたの将来を心配しておられる方なのです。そこで、神様は、ご自分の愛を明らかにするために、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの世界に遣わして下さいました。
神と人との仲介者イエス・キリスト
以前こんな話を聞いたことがあります。サイズの合わない二つの歯車は、どんなに工夫しても、かみ合うことがありません。それで無理にかみ合わせると、弱い方の歯車が、強い方の歯車によって、つぶれてしまうんです。
しかし、二つの歯車の間に、もう一つ両方に合う歯車を組み入れると、スムーズに回転運動が出来るんですね。大きい歯車の力は、間の歯車によって、小さい歯車の方に滑らかに伝えられていくんです。
神と人との仲介者となるため、イエス・キリストは、100%神のまま、100%人となりました。神の歯車を理解し、人間の歯車のテンポや弱さを兼ね備えた救い主それがイエス・キリストという方なのです。あなたのための救い主なのです。ところがこの救い主を、人は十字架にかけてしまったんです。
誰がイエスを十字架につけたのか
聖書はこう語っています。ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と。ペテロという人物が語ったのですが、この言葉は、このペテロという人がキリスト処刑1ヶ月余り経ったとき、ユダヤ人たちに語った言葉です。キリストを直接十字架にかけたのは、ユダヤ人ではありません。当時、ユダヤの世界を支配していたローマ人です。しかし、神が遣わした救い主を拒んだという点で、あなたがたの神に対する拒否という罪がイエスを十字架につけたのと同じなんだと宣告しているんですね。そして、これは、ユダヤ人だけではありません。私の罪がイエスを十字架につけたのだ。私がイエスを十字架につけたのですと、聖書は言うんです。
罪が赦されるのは加害者だけ
今の時代は、自分を被害者の立場において考えることが、まかり通る傾向があると思います。私が悪いんじゃない。こんなことになったのは、父親が悪かったからだ、いや、母親が悪かったからだ。夫が悪かったからだ。妻が悪かったからだ。学校が悪い、上司が悪い、世の中が悪い、社会が悪い、国家が悪い。
どうにかして人生の不始末の原因を、自分以外の人のせいにして、自己責任から逃れたいと思うのです。
重大犯罪の裁判における弁護の論理なんかを見ますと、責任転嫁の一点張りだと思うんですね。しかし、聖書は語ります。「私たち人間が悪い。私がイエスを十字架につけた。」あなたがイエスを十字架につけた。十字架につけたのは、あなたの罪である。あなたは誰かに対して、被害者であるかも分からないけれども、神に対しては、加害者であるというんです。
どうして聖書は人を加害者として、徹底糾弾するんでしょう。加害者だけが赦されるからです。キリストは罪人のために、十字架にかかって死んで下さったのです。罪人でない人はイエス・キリストと無関係の人です。しかし、罪人のためには、キリストはご自分のいのちを惜しげもなくささげて下さったのです。
どうぞあなたも罪人として、十字架のキリストを見上げ、復活の救い主イエス・キリストを心に受け入れ、そして、この永遠の罪からの救いを受け取って下さい。心からお勧めしたいと思います。
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。