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Bible & Gospel

■ No.429 2008年06月15日「イエス・キリストをいつも思う」

お早うございます、高原剛一郎です

 私は先日、あるクリスチャンドクターの講演を聴きました。年老いても元気な人は、3つの神経が発達していると言うんですね。
 第一は運動神経です。運動神経が鍛えられている人は、スポーツすることに積極的です。体は鍛えると応えてくれるようになっていると言うんですね。
 第二に反射神経です。反射神経がいいと、たとえつまづいても、上手なこけ方をするので、大事に至りません。しかし、運動神経が良くて、反射神経が発達していたとしても、それらは幸せであることとは関係がないというんです。
 幸せに生きるためには、第三の神経が必要です。それは、感謝神経だというんですね。「なんだシャレかいな」と思ったんですが、でも言えてることです。
 感謝するのを見つけることが上手な人は確かに幸せです。なぜなら感謝しているとき、人は喜んでいるからです。喜んでいる人は幸せです。喜んでいる間は、怒りや憎しみから解放されているからです。

 さて、天地をお造りになった神さまは、私たちに喜びのニュースを下さいました。私たちが失望によって打ち倒されように、支えるためです。その秘訣を語る聖書のことばを紹介しましょう。
「私の福音にいうとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったキリストをいつも思っていなさい。」
 福音とは聖書の語る救いのメッセージです。そしてそのメッセージには3つのポイントがあるんですね。

ダビデの子孫として生まれたキリスト

 第一に、ダビデの子孫として生まれたイエス・キリストを思うということです。
 ダビデというのは、キリストより1000年前のユダヤの王様です。神さまは、このダビデに沢山の約束を与えますが、その最大級のものは、将来ダビデの子孫から、救い主キリストが生まれると言うことでした。その約束通りに、ダビデの家系の中から、しかも処女から生まれたのが、イエス・キリストなんです。いや、それだけではありません。旧約聖書の中には、実に300箇所以上もキリストに関する予告が書かれています。これを預言と言うんですね。この300以上の預言の全部が、イエスの生涯において実現しました。

 私たちはダビデの子孫として生まれたイエス・キリストを考えることで、神の約束の確かさを確信できるようになるんです。イエス・キリストの生涯は、神の約束は、たとえ時間がかかっても一つもたがわず、ことごとく実現するという証拠と見本なんです。  私たちは、守ってもらえないような約束は何百ともらっても、ちっともうれしくありません。しかし、必ず実現する祝福の約束を頂けるなら、それは素晴らしいことではないでしょうか。

十字架の上で死者となったキリスト

 第二に、十字架の上で死者となったキリスト・イエスを思うということです。
 外国のCMフィルムにこんなのがあります。一人の女の子が動物園のカバの檻の前で、一生懸命絵を描いているんですね。ところが、うしろから画用紙をのぞき込むと美しい原色の小鳥が描かれているんですね。カバを見ながら小鳥を描くのは、なぜなんだろう思って目をこらして見ると、小鳥がカバのお尻の上にとまっているではありませんか。小鳥の美しさに心を捉えられた少女の目には、でっかいカバのお尻は、まるで見えていないんです。
 人は何に焦点を合わせるかで、見えるものと見えなくなるものがあるのです。私たちは、降って湧いたような災難に見舞われたり、試練に翻弄されたりするとき、つい自分の弱さ、自分のこれまでの罪、自分の醜さ、自分の至らなさに焦点を合わせてしまいます。  また、自分にひどいことをした人や、不当な攻撃を加えた人を、憎しみ、怒り、苦々しい思い出、心満たされてしまうことがあります。それはなぜでしょうか。自分の罪や人の悪に焦点を絞り込んで、人生を見つめてしまうからです。そんなとき、十字架にかけられたイエス・キリストに焦点を絞り込んで思うことが出来たらどんなに解放されることでしょうか。

 キリストは、私のどうにもならない罪と、私にひどいことをしてきた人のどうにもならない悪の両方を背負って、永遠の彼方にまで持っていって下さったのです。もうそれは終わったんです。キリストがそれらの罪の罰を受けることで、終わらせて下さったんです。それを二度と思い出す必要のない永遠の彼方へ完全に葬り去って下さったんですね。もうそこに帰る必要はありません。過ぎ去ったこと、けりのついたこととして、とどめを刺して下さったからです。罪責感や不全感や、赦さない思いに縛られそうになったとき、この十字架のイエス・キリストを思うことが出来ると、不思議に新しい力が湧いてくるのです。

死者の中からよみがえったキリスト

 第三に、死者の中からよみがえったキリストを思うことで、復活の力を思い出すことが出来るんですね。
 私は2月の番組で、カバイマンという子供向け童話を紹介致しました。皆様からとても大きな反響を頂きました。どんな人であるか、どんな物語であるかといいますと、彼はどんなできの悪い子をもかばう人なんですね。彼にかかるとどんなに魅力のない人も素敵な人に見えてきます。
 「あの子勉強出来ないようね。でも、一生懸命やっているよ。」「あの子スポーツ、何をやらせてもだめだよね。でも、決して犯則しないよ。」「あいつの服って、いつも同じ服ばかりだなあ。でも清潔だよ。」「あいつの言葉って、なまっていて何しゃべってんだか、わかんんあいな。でも声が大きくて良く届くよ。」
 どんな批判を受けている子供も、カバイマンが付け加える最後のひとことによって勇気がでてきます。それまで、なんの取り柄もないと思われていた子供も、カバイマンの付け加える言葉によって、「いいとこあるぞ。あの子にも」という見方に変えられてしまうんですね。まるで柔道の巴投げみたいな話、それが延々と続くんです。この本を私は今、手元に持っておりません。メモしかないので、誰が書いたのかも分かりませんが、しかし、心に深く残っているんです。
 これは、イエス・キリストのひな形であるからです。聖書はこう言っています。死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。

でも、キリストはよみがえった

 失望したときには、あのカバイマンのように、最後に付け加えたらよい言葉が、ここに示されているように思うのです。それは、「でも、キリストはよみがえった。」の一言です。
 「最近、老眼になって聖書も読みづらいなあ。でも、キリストはよみがえった。今も生きてる方が、代わりに目となって、私の将来をご覧になって下さるんだ。」「仕事で大失敗してしまった。でも、キリストはよみがえった。やり直しの力と知恵と勇気を与えて下さるんだ。」「友達に裏切られた。でも、キリストはよみがえった。この方は私を見捨てることはないのだ。」「神様が信じられなくなった。でも、キリストはよみがえった。この事実を覆せる人は誰もなかった。あらゆる無神論の理屈を、屁理屈に変えてしまうのは、復活の歴史的事実だ。」「医者から、もうあと何日も生きれないと宣告された。でも、キリストはよみがえった。それによって天国があるということが実証された。」

 このよみがえりのキリストがあなたに求めていることは一つだけです。それは、自分の救い主として、このイエス・キリストを信じることです。どうぞ、イエス・キリスト信じ、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めしたいと思います。



新約聖書 テモテへの手紙 第2 2:8
 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。