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Bible & Gospel

■ No.427 2008年06月01日「力あるとりなし手 イエス・キリスト」

お早うございます、高原剛一郎です

 私は先日、リスナーの方からお手紙をいただきした。「祈っても祈っても、答えられないのはどうしてですか」っていうんですね。
 実はギリシア神話の中にこんな話があるんです。ある時、オーロラという女神が人間の青年に恋をするんですね。しかし彼は死ぬ運命にありました。そこでオーロラは、ゼウスという神々のトップに「死なないようにしてください、彼が永遠に生きるようにして下さい」と祈るんですね。その祈りは叶えられました。しかし問題が起こったんです。永遠に生きるようにして下さいと祈る時、若さも保てるように求めるのを忘れたからです。その青年は年とともに老い、そして骨と皮だけで今や見る影も無いんですね。しかしどうしても死ねないのです、死にたくても死ねないんですね。オーロラの祈りは、時と共に祝福から呪いに変わってしまったんです。良かれと思ってした願いでしたが、とんでもない不幸になってしまったっていうんですね。

 知恵と愛をもって祈りに答えられる神

 ここに一つ教訓があるように思うんです。もし人間の願いを願ったとおりに、しかも瞬時にかなえられていったら人間は本当に幸せになるだろうかということです。おそらくそうはならないんですね。何故なら人間はあまりにも無知なために、自分を破滅させてしまうものを祈り求めてしまうからです。祈っても答えられないのは、神がいないからではなく、祈りのとおりに実現したらご本人が破滅するからかも知れないんですね。神は祈りを聞く方です。しかし人間の言いなりになって答えるのではなく、知恵と愛をもって答えて下さる方なんですね。

 祈りについてのたとえ話

 さて聖書の中に、祈りについてイエス・キリストがたとえ話で説明されているところがあります。
 「またイエスはこう言われた「あなたがたのうち、誰かに友達がいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君、パンを3つ貸してくれ、友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものが無いのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子供たちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 あなた方に言いますが、彼は友達だということで起きて何かを与えることはしないとしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう。わたしは、あなた方に言います。求めなさい。そうすれば与えられます。」
 さて、このたとえ話の中にきかれる祈りのポイントがいくつか示されています。真夜中にドアの前で叫びながら、睡眠中の友人をたたき起こす人のように、しつこく祈り求め、探し続けよっていうんですね。ところで断られてもひるまずに、求め続けることが出来た理由がいくつかあるんです。なぜ、かくもしつこく願い続けることが出来たんでしょう。

 1、神に祈り求める

 第一にこの男は、自分の家にはパンが無かったからなんですね。自分の家は、どこをどう探しても一かけらのパンもない。だからこそ強く迫ることができたんです。力ある祈りの第一条件は、自分に出来ないことを祈るということです。自分で出来ることを祈っても神はききません。自分で出来ることまで神様にしてもらえるってことが祈りとするなら、祈りとは人間を怠け者にしてしまうものになってしまうからです。祈りとは自分で出来ることを全部やり尽くした上で、それでもどうにもならないことを祈るんです。ただ寝そべって空想にふけることが祈りなのではありません。自分の側で出来ることについては、ベストを尽くすんです。その上で、ここから先は自分の手に負えない、ということを神に祈り求めて行くんです。

 2、神には出来ると信じて祈る

 第二に彼は扉の向こうにはパンが有るということを知っていたので、強く求めることができたんです。無いんだったら強く求めることが出来ないんですよね。すなわち「神には出来る」と信じて祈るということです。人には出来ないことも神にはお出来になると、信じて祈る祈りです。

 3、具体的に祈る

 第三に彼はパンを求めるだけではなく、その数まで指定していますね。「3つ貸してくれ」と言いました。すなわち具体的に祈ったんです。どうして欲しいのかを細かく言い表すことが出来たんです。そのように祈れたのは彼が旅人の現状をよく考えていたからです。ただ同じ言葉を繰り返し繰り返し、呪文のように唱えるのではありません。考えて祈ったんです。

 4、聞かれていると信じて祈る

 第四にその願いが聞かれていると信じて祈りました。彼は友人の姿を見ることはできません。しかし自分の声は確かに友の耳に届いている、ということを信じていました。何故ならこの友人は「迷惑だから止めてくれ」と返事をしてしまったからです。いっそのこと寝たふりを決め込んで、黙ってたら追い返せたかもわかりませんね。しかし返事が有った以上「これは聞いとるな」(関西弁:聞いているなの意味)と分かったんですね。「こうなったら徹夜で叫ぶぞ」というような、そんな意気込みでいったんじゃないでしょうか。

 5、他者のためのとりなしの祈り

 第五にこの願いは、自分自身のための祈りではなく、自分の家に身を寄せた旅人のための祈りであったからです。自分の空腹を満たすための祈りではなく、自分の旧友のためのとりなしの祈りでした。それは自己中心の願いではなく、友を思いやるところから生まれた仲裁者の祈りであったのです。自分に頼み込んできた相手と、自分が頼み込んでいる相手を結び付ける祈りであったのです。そして私は、自分のところに真夜中訪ねてきた哀れな旅人の為に、迷惑がられることをものともしないでパンを求めにいったこの情け深い男の中に、イエス・キリストの姿を見るように思うのです。

 祈って下さったイエス・キリスト

 イエス・キリストは真っ裸にされ、鞭打ちを受け、辱められ、ボロ雑巾のように叩きのめされ、そして十字架に釘付けられた時、真っ先になさったことがあるのです。それは天の神に向かって祈ることでした。自分のピンチを切り抜けさせて下さい、という祈りではありません。罪人のために赦しを願い求める、執り成しの祈りです。
 「父よ彼らを許して下さい。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです」キリストは霊的な暗やみの世界の中、たった一人で父なる神に向かって、その祈りがきかれると信じて具体的に祈って下さったのです「どうぞ彼らを許して下さい。あなたには罪を赦す権威があります。そして神よ、あなたがいかなる罪人をも無条件でお許しになって、もあなたの正義が曲げられたことにならないために、私を身代わりに裁いて下さい」と願って下さったのです。神と神に反逆している人間を結びつける仲裁者となるために、この方は命を捧げ尽くして下さったんですね。神はこの祈りをききとどけられました。その証拠が十字架の死後、3日目の復活なのです。

 いのちのパンを食べる姿を見るのが喜び

 あのたとえの男は、話の続きは無いのですが、おそらく大変な苦労をして借り受けてきたパンを3つ食卓に並べて「さあ客人、食べてくれ」と言ったと思うんです。空腹の友人がおいしそうにムシャムシャそのパンを食べる姿を見るのが、彼の喜びなんですね。しかし、もしその旅人が、そのパンをいただくことを辞退したら、どうでしょう。せっかくの労苦を無駄にすることになってしまいますね。そうであってはならないと思うのです。
 どうぞあなたもキリストの下さる命のパン、永遠の救い、永遠の赦しをいただいて下さい。心からお勧めしたいと思います。



新約聖書 ルカ11:8〜11
 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。