■ No.425 2008年05月18日「罪を背負った救い主」
お早うございます、高原剛一郎です
私にはいくつかみっともない癖があります。その内のある癖については、今ではすっかり直りました。それにはきっかけがあったんですね。たまたまその癖を見ていた娘が、ひとこと、高原剛一郎さんともあろう方がていったんです。はっとしたんですね。その一言で直ちに止めたいと思い、また止めれるように感じ、また止めれるように祈り、そして、とうとう止めてしまいました。人に何かを注意をする時、「何だやっぱりお前だったのか。思った通りだ」というより、「なぜあなたのような方が」と言う方が効果的だと思います。見下しから出たことばに人は反発しますが、愛と期待から出たことばには、心を開くからですね。
聖書の中には人間の罪に対する指摘が沢山出てきますが、それらはみんな神様の愛からのことばです。「やっぱりお前か」というような言葉ではありません。神の形に似せられて造られていながら見る影もなくなったものに対する痛みを伴った神様のことばなんですね。そんな聖書のみことばを今日もご一緒に考えてみましょう。
聖書が語る罪とは
神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。さて、今、罪ということばが出てきました。では、罪っていったいなんでしょう。多くの方は罪と言われてもピンときません。なぜなら、警察に捕まるようなことはしたことがないという自由があるからですね。しかし、聖書が語る罪というのは、神を神として認めず、崇めず、感謝せず、神を無視することを罪って言うんですね。
私はある時、大阪梅田にある大きな本屋へ行き、図書カードで本を買い込みました。カード残金が不足していたので、二枚目の図書カードを出して支払いました。ところが店員さんは、使い切ったカードを私に戻し、まだまだ残額の残っているカードの方を処分してしまったのです。私がそれをカウンターで指摘するとその新人店員は、ごめんなさいって平謝りに誤りました。但し、私にではなく先輩の店員に対してです。私は一言も謝罪を受けることのないまま、彼女は次のお客さんに対応しはじめたんですね。
その次に私は、格安チケットの店に行き、東京まで新幹線の往復チケットを注文しました。ところが家についてそのチケットをよく見ると、博多行きチケットなんですね。お店が間違えたんです。私はもう一度店に行って、「困りますよ」と苦情を言いました。すると、「お客さん大丈夫ですよ。いらいらいなくても交換してあげますから。今度から気をつけてね。」というんですね。私はとても不愉快になりました。お金を払う私にはお客としてサービスを受ける権利があるのに、迷惑な存在のように扱われたからです。一日に二回もそんなことがあるとほんとにいやになってくるんですね。しかし考えてみたんです。たった一日に二回、客なのに、客としての扱いを受けることがないことで、こんなにも無礼を働かれたという気持ちになるなら、神が神としての対応を受けないということは、どんなにかわきまえのない態度ではないだろうかと。
この世界のオーナーは神
神様という方は、この世界のオーナーなんです。造り主です。命の支え主、すべてのものに命と息を与える主権者です。当然報われても良い方です。この神が一日に2回2人の人からではなく、毎日毎日何十億という人間から無視され、悪態をつかれ、忘れさられているのです。ですから、聖書はこの態度を罪というのです。
しかし、神を見失った結果、最も大きな損害を受けたのは、実は人間なんですね。太陽に背中を向けて歩くとどこまで行っても自分の影、暗闇の中を歩くように、命の造り主に背を向けた結果、人は人生の目的を見失い、いのちの躍動を手放し、死と死後の滅びに向って、ひたすら歩き続けるものとなってしまったというんですね。しかし、神様はキリストをこの世に送って下さったんです。イエス・キリストは、あなたをこの罪とその結果から救うために天からこの世界に来られた救い主なのです。
罪の世界に飛び込んで下さったキリスト
私は十数年前まで商社マンをしておりました。その時代のある時、高槻の方にある農薬開発の研究所に行ったときのことを今でも忘れることは出来ません。そこには実験用におびただしい数のゴキブリ、ハエ、蚊、ネズミなどが飼育されていたんです。そこで開発される殺虫剤の効き目を研究するためのものです。ところで私たちは、蚊が一匹飛んでいる位でたじろぐ人はないと思うんですね。しかし、それは一匹だからです。もし「数千匹の蚊が密集している箱の中に腕一本入れてご覧」と言われたら、出来ますか。気持ち悪くて出来ないでしょう。もし、「数万匹のゴキブリでいっぱいになった部屋の中に裸で入りなさい」と言われたら入りますか。それは拷問といってもいいんではありませんか。忌まわしいもの、汚れたもの、不潔なもので溢れかえっているところに、どうして行きたいと思うでしょう。ところが神様はそれをして下さったのです。神様の目にゴキブリよりも、ハエよりも、はるかに不潔で汚らしい罪の世界に、キリストは人となって飛び込んで下さったのです。罪と全く無関係の方、罪を知らない方が、罪の世界のただ中に降りて来られたのです。罪をだれよりも嫌悪する潔癖なる方、聖なる神のひとり子が、人の罪を何もかも丸ごと引き受けて、十字架にかかって下さったというんです。
キリストの十字架と復活によって罪の償いが成功した
このかたは実際に罪のある方になったのではありません。全く罪のない清い方の上に、人の醜いすべての罪がのせられたのです。そして、この方は罪もろとも神に裁かれたのです。一体なぜですか。あなたの罪の身代わりとなるためです。そして、キリストはすでに身代わりの刑罰を受けて下さったのです。あなたの罪の処分はもう終わっているんです。
キリストは十字架の死の後、墓に葬られ、三日目に復活し、そのことによって、確かに罪の償いが成功したのだという証拠を証ししてくださったんですね、。ですから、私たちは、このキリストを自分の救い主として受け入れることで、罪のゆるしを自分のものとすることが出来るのです。どうしたらいいんでしょう。イエス・キリストを救い主とすると決心することです。
一歩前へ進む信号と信仰
私は先日、ある女性ドライバーのお話を聞いたんです。信号が赤だったので、車を止めて、信号が青に変わるのを待っていたそうです。ところが、5分たっても、6分たっても、7分たってもいや、10分たっても赤のままなんです。えらい長い信号だなと、ふと後ろを振り返ると、ずらっと車が続いているではありませんか。
そうこうしているうちに、後ろの車から一人のドライバーが降りて来て、そしてこちらに近づいて来るんです。そして窓越しに一言「もう少し車を進めて下さい。もう一歩車を進めて下さい」というんです。言われた通り車を50センチほど前へやると、途端に信号が青に変わったというのですね。実はその信号はセンサー式で停止線に車がくるとチェンジするようになっていたのです。ところが彼女は停止線より50センチ手前に止めていたので、センサーに感知されなかったと言うんですね。
一歩前へ進まない限りいつまでたっても赤のまま、一生開かずの信号で止まったきりなのです。しかし、一歩前進するだけで信号は青に変わり、ゴーサインが出、向こうの世界へ発進することが出来るのです。これは信仰も同じです。キリストを救い主とすると、今日決めて、救いを頂こうではありませんか。こころからおすすめしたいと思います。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。