No.422 2008年04月27日「モーセに見る謙遜の秘訣」
お早うございます、高原剛一郎です
私は先日、ロンドンの交通局が作ったコマーシャル・フィルムを見ました。白いユニフォームを着た4人と、黒いユニフォームを着た人が4人います。そしてこの白黒2つのチーム8人が、入り乱れてお互いのチーム内でバスケットボールのパスをするんです。「さて、白いチームは何回パスをしたか数えてください」っていうんですね。目を凝らして数えると13回でした。ところが次の画面でテロップが出ます。「あなたは熊のぬいぐるみを着た男が、ムーンウォークをしながら画面を横切ったことを気づきましたか?」。
え〜っ、ともう一度巻き戻してみると、確かに熊のぬいぐるみ男がクネクネしながら右から左へと横切っているではありませんか。続けてテロップが出てきます。「見ようと思っていないものは見落としてしまう。だから自転車に注意しよう」、という公共広告だったんですね。いや、いっぱい食わされましたね。
真理をついたコマーシャル
しかし、このコマーシャルは見事に真理をついていると思います。
どんなに目立つものが目の前に有っても、他のものに気を取られていたり、見ようとしていない時にはそれが見えないのです。それは神様についても言えると思います。あなたをお造りになった創造主は、あなたを愛し、あなたを生かし、あなたに人生の使命とプランをお持ちです。ところが神なんかいないと思い込んでいる時には、証拠を示されても気づかないんですね。そこで、神なんかいるわけないという考えを一旦脇に置いて、神はおられるに違いないと思って聖書をひも解いてみられることを、是非お勧めしたいと思うんです。
神の使命に生きた人物モーセ
さて、今日は自分に対する神の使命に生きた人物の中から、平安を持って生きる秘訣を考えたいと思います。その人物の名前はモーセです。彼は聖書によると、最も謙遜な人物、最も柔和な人、他人の批判に対してそれに落ち着いて対応できた人だと紹介されています。旧約聖書の最も基礎の部分、創世記から申命記までを編纂した人物。多くのリーダーから、リーダーの中のリーダーとして研究され注目されてきた人物がモーセです。このモーセの人生を短い節で示している個所があります。
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民と共に苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる、大きな富と思いました。彼は酬いとして与えられるものから目を放さなかったのです。」
偉大な人物モーセ
ここにモーセが、偉大なる人物として成長して行った秘訣が3つあると思うんですね。
第一に自分が何者であるかを、ハッキリと知ったということです。モーセはユダヤ人の息子でありながら、数奇ないきさつでエジプト人の王族メンバーとして養育された人なんです。しかしエジプト人のロイヤルファミリーに入るまで、幼少期までは実の両親、ユダヤ人の家族の中で育てられました。彼はそこで自分の本当のアイデンティティを培ったんです。すなわち自分の本当の生まれは、神に選ばれたユダヤ民族の一員だと意識です。「今はユダヤ人はこのエジプトの中で二級市民扱い、いや奴隷民族としてこき使われ、差別され、見下されているけれど、ユダヤ人にはユダヤ人にしか出来ない特別な使命が有るんだ。エジプト人の張ったレッテルによっては打ち消されようの無い、高尚な使命を授けられた民族、それがユダヤ人なんだ」という誇りが有ったんです。自分のアイデンティティを創造主との関連の中で、確立していたんですね。
五月病
毎年5月になると、新入生の間に五月病が始まります。目標としていた新しい学校に入学したものの、自分が本当は何者かが分からないので、人生において次の目標を立てることが難しくなってるのではないでしょうか。あなたは何者でしょう。あなたとはどういう存在なんでしょうか。聖書は明言します、天地万物の創造主によって作られた、神の最高傑作です。
どう生きたいかを考えたモーセ
第二にモーセはどう生きたいかを考えたのです。彼はエジプトの王家で、最高の教育を受け、最高の生活をしました。食べるもの、飲むもの、着るもの、住む家はどれをとってみても超一流のものばかりです。しかしその王宮の中で交わされる会話は、どれもこれもがユダヤ人を見下し、バカにするものばかり。その中でモーセは自問自答したことでしょう。「私はエジプト人なのか?ユダヤ人なのか? 私の本心は何なのか。自分の本心を偽って裕福に生きることより、自分の本心に正直に生きて貧しくなる方が、本当の人生を生きることになるのではないか。偽善者とは人を欺く人ではない、自分の本心を欺いて生きる人ではないのか」。
そうして王の家を出て、ユダヤ人と一緒に苦しい人生を生きるということを願うようになって行った、っていうんですね。どう生きたいかが見えるためには。まず自分が何者であるかを知ることです。そして自分が何者であるかが分かったなら、その自分の使命に正直になって、前進するだけです。それが柔和な人への道です。謙遜とか柔和である人は、人生の土台部分において自分と和解できている人です。自分を偽っているとき、人はイライラして生きざるを得ないんですね。
冒険的に生きる秘訣
第三に彼には冒険的に生きる秘訣がありました。それは自分から目を離して、見上げるべき神を持っていたということです。モーセも人間です。完全ではありません。多くの失敗や過ちもありました。それでも怯まず、弱いまま前進し続けることが出来たのは、自分にこだわるのではなく、人生の完成者に委ねることを知っていたからです。
カラマーゾフの兄弟
最近、カラマーゾフの兄弟という小説がとても読みやすい翻訳で出版され、巷でブームとなっております。この本の中にゾシマという長老が登場します。彼はクリスチャンです。彼は若い頃ハンサムで、有能で、人気者の軍人でした。ある日ダンスパーティで知り合った貴婦人に恋をしてしまうのですが、彼女はある男性の婚約者だったのです。そうとも知らないゾシマ青年は、一方的に熱を上げます。しかし彼が外国へ出かけている間に、彼女は結婚してしまうのです。プライドが傷ついたゾシマは、彼女の夫に侮辱を加え続け、とうとうピストルによる決闘にまで持ち込むことに成功します。その決闘の前日、興奮しながら帰ってきたゾシマに門番の兵士が挨拶すると、彼は問答無用で門番を殴り倒すんですね。そのままベッドに倒れ込んで朝になります。すると小鳥のさえずる美しい自然が彼を迎えるのです。彼は心の中にしっくりこないものを感じます。理由は明白でした。門番を理由もないのに殴り倒したことを思い出したからです。「美しい自然の中で、私だけがなんて醜いんだろう」、彼は門番のところへ行って土下座して謝ると、心の中から新しい喜びが湧いてくるんですね。
罪を認めて告白するのは気持ち良いこと
実は自分の罪を正直に認めてそれを告白するというのは、とっても気持ち良いことなのだということを発見するんです。さて不当な怒りを黙って引き受け、殴り倒されながらそれでも徹夜でゾシマの安全を守った門番は誰のことを指しているんでしょう?実はイエス・キリストのひな型なんです。この方が私の罪を引き受け、私の心に良心の感覚を目覚めさせ、間違いを認めさせ、悔い改めに導き、新しい人生に連れて行く方なのです。あなたも自分は何者かを知り、どう生きたいかを決めるために、この救い主イエス・キリストを仰いで永遠の命を得てください。心からお勧めしたいと思います。
信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。