■ No.418 2008年03月30日「神を見上げて救われる」
お早うございます、高原剛一郎です
さて、物作りには2種類の方法があるようですね。鋳型に流し込む方法と、たたき上げて行く方法です。鋳型を使うと同じものが大量に、しかも早く出来ますが、出来た製品はもろく、割れやすく、衝撃に弱いんです。しかし、たたき上げたものは、世の中に一つしかないもので、しかも強靱なものに仕上がるんですね。
神様は、人間を大量生産の製品のようには作りません。一人ひとり、世の中に一つしかない芸術作品として練り上げ、鍛え上げ、その人の一生をかけて完成に向けて仕上げて行かれる方なんですね。
人生の中にいろんな試練や苦難がありますが、神様はそれをただの悲しみに、とどめ置くことなく、意味のあるものへと引き上げて行くことが出来る方なんですね。聖書の中には、苦難の中にある人への語りかけが沢山出てきます。その中にこんな言葉があるんですね。
「彼らが主を見上げると、彼らは輝いた。『彼らの顔を恥かしめないでください。』 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」
ここには聖書の大原則が書いてあります。救い主を見上げるものは、苦難の中でも輝くんだっていうんですね。何故でしょうか。
神を見上げるなら我を忘れる
第一に、神を見上げている間、我を忘れることが出来るからです。
現代の精神医学や心理学は、フロイトという人から決定的な影響を受けているんですね。その特徴をひとことで言うと「自分の内側を見つめる」ということです。自分の過去をさかのぼり、自分の生い立ちを考え、終わってしまったことに注目し、過去の事件が、現在の自分を決定付けていると考える見方なんですね。過去や自分の内面を探ることは、ある場合は有益なこともあります。しかし、多くの場合、人間を過去に縛りつけてしまって、まるで生い立ちという宿命によって未来までもが動かしようのないことであるような印象を与えてしまうんですね。
しかし、聖書は一貫して、自分にこだわることの無益さを語っているように思うんです。人間の内側にはもともと良いものは無いからです。それは探ってみて分かることではなく、初めから分かってることなんだっていうんですね。自分の内側に立派なものを探そうってするのは、不毛の努力なんですね。
私はなんというダメ人間か
あるところでゴルフコンペがありました。コースを回っている最中に、一人の部長さんに携帯電話が入ったんです。電話を受けた部長は、見る見るうちに顔面蒼白になったそうです。実は彼の担当していた会社が、不渡りを出して五千万円が焦げ付くことになってしまったからです。さっきまで自信満々でゴルフに熱中していたのですが、そんな勢いはどこへやら。彼はあるクリスチャン弁護士に相談に行きました。そこでたとい、回収することが出来たとしても、5%がやっとのところだと言い渡されます。彼はもう、どん底の精神状態になって行きます。「あぁ、私の目が節穴だったからこんなことになった。五千万円の焦げ付きで会社は倒れることはないだろう。しかし大損害だ。私は責任をとって辞めなければならない。しかし家のローンがまだまだ残っている。子供たちも養って行かなければならない。私はなんというダメ人間か。」
彼は自分の失敗にフォーカスを絞って自分の人生を考えると、全て失敗するために今までの人生があったかのように見え出して来たんです。今まで順調に来たのも、最後の最後で失敗するためだった。そのようにすら思えてきたんです。そして、放っておいたら死を考える可能性まで見受けられたんですね。
どこにフォーカスを当てるか
どうしてそのようになってしまったんでしょう。間違ったものにフォーカスを絞ったからです。それでクリスチャンの弁護士は言いました。ちょっと待って下さい。あなたは自分の失敗だけを見て、打ちのめされていますが、大体、どうしてその年で部長になれたんですか。どうして、その会社の担当についたんですか。どうしてあなたの会社の社長は、その会社との取引にゴーサインを出したのですか。社長の立場になってちょっと考えてみようじゃありませんか。すると部長は言いました。「いや実はその会社には、我々が欲しくてたまらない事業部門があんたんで、それで取引したんです。「じゃあ、その会社を買い取って、その事業だけ残して後は、手放したらいいんじゃないですか。」そうか、彼は途端に元気になって、社長に提案しました。社長、五千万焦げ付きました。しかし、銀行から五億円融資してもらったら、あの看板事業を我が社のものにすることが出来ます。このプロジェクトは見事に成功したって言うんですね。
見上げる救い主の中に罪の赦しがある
第二に、見上げる救い主の中に、罪の赦しがある。だからこの方を仰ぐときに輝くんです。私の友人にとても気の短い男がいます。学生時代はケンカ早いことで有名でした。彼の車に乗るということはとても恐ろしいことだったんですね。追い抜かれたら必ずおいぬ仕返します。そして、公道レースが始まるんですね。
ある時、一人の男が彼のお気に入りの服に唾を描けたんです。ところがその時、彼は怒らずよごれをふき取っただけです。次にこの男は彼の手に唾をかけました。それでも友人は冷静に汚れを拭き取っただけです。さらにこの男は彼のズボンに唾を描けたんですね。それでも友人はニコニコしながら黙ってこの唾を拭いたんです。なぜでしょう。この唾を描けた男は生後3ヶ月の息子だったからです。赤ちゃんって生まれて3ヶ月くらいのときに猛烈によだれがでますね。だらだらだらだら、なんぼでも(いくらでも)よだれが出てくるんです。しかし、それは成長の記です。自分の子供から出てくるよだれをこの友人は温かく見守ったんですね。
罪と死の問題を解決するのは
聖書の中に、あなたがたは罪深いものでも、自分の子供には良くすることを考えるでしょう。ましてや、天の神様がどうしてあなたがたに良くして下さらないことがあるでしょう。というイエス・キリストのことばがあります。あなたの造り主である神様は、あなたを愛し、あなたの失敗を赦し、あなたの過失を赦し、また、あなたがわざとした罪をも赦して下さる方です。その赦しのために神はイエス・キリストを十字架の上であなたの身代わりに裁いて下さったんです。なぜそこまでして下さったんでしょう。神様は、あなたを愛しているからです。キリストこそはあなたの罪を完全処分して下さった救い主、あなたの罪と死の問題を解決する救い主なのです。死んでよみがえったこのキリストを見上げ、救いをいただくとき、人は輝くのです。
見上げる神の中に人生の目的と意味がある
第三に見上げる神の中にあなたの人生の目的と意味があるからです。神はあなたに対してご自分の目的を持っておられる方なんですね。神様にはあなたのための最高の人生計画があるんです。神様はあなたを使ってこの世に神の慰めと勇気を放ちたいって、願っていらっしゃるんですね。
幸せとは、香水のようなもの
エマーソンという哲学者はこう言いました。「幸せとは、香水のようなものだ。相手に吹きかけると自分のところに帰ってくる。」神様の恵の香水をはなすために神様はあなたを造られたのです。他の人を勇気づけ励ますために、自分ができることは何かを考え、それを実行に移していくとき、神様の力が自分を介して、この世界に放たれていくということを経験するようになります。そして、その時、自分自身もまた、幸せな心で満たされるんですね。どうぞ、あなたもキリストを仰いで、神の光で輝く人となって下さい。心からお勧めしたいと思います。
34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
34:8 主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。