■ No.414 2008年03月02日「罪赦される唯一の道キリスト」
お早うございます、高原剛一郎です
私が子供の頃、友だちと約束するとき、念押しのために指切りというのをしました。小指を絡ませてこう言うんですね。「指切りゲンマン、ウソついたら針千本飲ます。」と言うんです。「指切った!」で終わるんですが、この指切りというのは、もしウソをついて約束を守らない場合、指をちょんぎっちゃうぞ、しかもゲンマンだというのです。ゲンマンというのはゲンコツ一万発のことです。さらに針を千本飲ませると言うんですから、まあ、よくよく考えると恐ろしい契約なんですね。
罪を犯すものは必ずひどいめにあう
しかし、このような言葉遊びは、世界中に似たのがいっぱいあるそうです。そして、そこには一つの普遍的な価値観が表れているように思うんですね。つまり、ウソという裏切りの罪を犯すものは、必ずひどいめにあうべきだ。罪や違反には、罰が下るべきだという考えです。今、世界中に色んな国があり、いろんな法律がありますが、一つ共通していることがあるんですね。罰則の伴わない法律はないということです。違反しても罰がない法律は、あってもないのと同じだということをみんなよく知っているんですね。
甘やかされて育つ子ほど問題行動を起こしやすい
福岡県に相部教育研究所という機関があります。所長の相部和男さんは、40年以上にわたって少年院法務官や、保護観察官を務めた方です。その間、一万人以上の非行少年を面接指導してきた方です。彼は非行少年の問題行動の原因を探るため幼児期の育てられ方を、徹底的に調査しました。本人や保護者と面談を繰り返して、生の情報を聞き取ったんです。その結果意外なことが分かったんですね。非行少年の内、放任で育てられたのは、わずか20%なんです。最も多かったのは、溺愛されて育ったケースが62%、約3分の2を占めたと言うんです。
相部さんにの先入観
それまで相部さんには、先入観がありました。非行に走る子供はきっと愛情に飢えた子供たちに違いないと思ったんです。ところが実際は逆だったんです。幼い頃に甘やかされて育つ子ほど、子供は思春期になったときに問題行動を起こしやすいというんです。なぜでしょうか。溺愛された子供はわがままだからです。やがて親の言うことを聞かなくなります。それで親はガミガミ口うるさくなります。それでも言うことを聞かないと親は暴力を振るうようになります。子供は耐えられなくなって、刺激やはけ口を求めて家を出ます。わがままに育った結果、自分の欲望をコントロールする方法を知りませんので、すぐに悪い遊びに飲み込まれてしまうというんですね。
イスラエルで見た栽培方法から学ぶもの
先日、私はイスラエルに行きましたが、イスラエルの国の半分は荒野です。一年の大半は雨が降らないんですね。ところがガンガン照りつける中東の太陽と、塩分を含んだ荒野の大地で、飛びっきり甘いトマトが栽培されているんです。一体どんな栽培方法なんでしょう。極限まで水と肥料を減らして育てるという栽培方法です。ホースで一時間にわずか数滴、根っこに直接しずくがかかる程度にしか水をやりません。そのために土はパサパサ、葉っぱはどれもこれもしなだれて、下を向いているんですね。ところが実だけは、はち切れそうに実っているんです。
プロの栽培家は知ってる
よーく見ると実の表面から無数の産毛が生えているんです。余りにも養分、水分がギリギリなので、産毛を通して空気中の窒素やカリウムや水分を吸収して、生き延びていってるんです。通常では見られない、眠っていたトマト本来の生命力が目を覚ましているんですね。ですからデッカイ、みずみずしい、そして甘いんです。普通のトマトの糖度が2〜3であるなら、この栽培方法で実ったものは、15以上あるんです。プロの栽培家は知ってるんですね、水をやり過ぎるのは愛じゃない、根腐れを起こしてしまうからです。
本当の愛は相手をダメにするような、溺愛ではなく、正しく生きる力を伸ばす態度なんですね。愛情に飢えた為に非行に走ってしまった子供は、愛情を注いでやれば立ち直ります。しかし愛情を無分別に注ぎ過ぎて、甘やかされた子供は根腐れを起こしてしまい、救えない場合があると相部さんはおっしゃるんですね。
溺愛と本当の愛はどこが違う
では、溺愛と本当の愛はどこが違うんでしょう。それは躾けの有る、無しなんです。悪に対しては罰というルール無しに、のべつまくなしに世話をすることを溺愛と言うそうです。そしてそれは人格をダメにする接し方だとおっしゃるんですね。神様は愛です。しかし神様の愛は、人間をダメにするような愛では有りません。人間を破壊するような愛、人間の堕落を助長するような態度は神のご性質の中には無いんですね。神様は愛であると同時に、正義の神です。罪には必ず罰があるということを、宣言する神なんですね。何故なら悪が有っても裁けないような神は、神の名に値しないからです。罪には必ず、死という結末が伴います。そしてこの罪が赦される方法は、たった一つしか無いんですね。
聖書はこう語ってるんです。「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる。と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しは無いのです。」ここには人間の罪が赦される大原則が書いて有ります。罪は血を注ぎ出すことがなければ、赦されないっていうんですね。血っていうのは命のことです。人間の命は血にあります、大量出血すると体の臓器が全部正常でも、人は死んでしまいますね。血とは人の命を司るものなんですね、この命である血が流されるのでないかぎり、罪は赦されないんだって聖書は語るんです。
人が罪赦される為に必要なかた
人が神の前に罪赦される為には、命による償いがどうしても必要なんだっていうんですね。しかし命は一つしか有りません、一つしかない命を失ってしまったら、人は永遠の滅びに行くしかないんです。一体、命を保ちながらしかも罪赦される為には、どうすればいいんでしょう。自分に代わって、命を捨てて償って下さる方を持つことなんです。あなたに代わって、十字架に掛かり、血を流し、命を捨てて下さる方がどうしても必要なのです。そしてそのようにあなたの身代わりに血を流して死んで下さった方こそは、イエス・キリストなんです。
なぜキリストが必要なんでしょう
なぜ罪人が赦されるのにキリストが必要なんでしょう。私達がすべてをご存知の神に、完全なる罪の赦しを受ける為には、罪の無い命の血が流されなければならないからです。そして罪の無い人となって十字架に掛かられたイエス・キリストは、あなたの為にすでに十字架の上で血を流してあなたの罪の赦しを勝ち取って下さっている方です。すでにあなたの為にキリストの血が流されているので、あなたは罪赦されることができるんです。どうぞあなたのために命を投げ出して下さった方、死から甦ったイエス・キリストをご自分の救い主として信じて下さい。心からお勧めしたいと思います。
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。